ジャクソン・ポロックの絵のフラクタル構造から学ぶ、ADHD系作家さんのクリエイティブな生き方

わたしがジャクソン・ポロックの絵に隠された秘密について知ったのは、もう五年くらい前でした。出典健忘のせいで、どの本だったか いまだに思い出せないのが悔やまれるのですが、その本の著書が、こんな感じのことを言っていたのを覚えています。

ポロックの絵を見て、最初は、こんな絵なんてうちの幼い娘だって描けると思っていた。でも、ポロックの絵には、計算しつくされた緻密なフラクタルが見られ、素人が描いた絵とは一線を画しているのだという研究を知って、うちの娘には描けそうもないことがわかった。

ほとんどの人は、ジャクソン・ポロックの絵を美術の教科書などで見たことがあるでしょう。ポロックという名前を知らない人でも、彼の絵は見覚えがあるのではないでしょうか。彼の絵は、全身を動かして絵の具を飛ばして描くという、アクションペインティングと呼ばれる大胆な技法のさきがけとして知られています。

▽ジャクソン・ポロックの絵 (クリックで画像検索)

一見すると、何も考えずに乱雑に絵の具を飛ばしただけの絵に見えますが、わたしたちが同じような絵を描いたところで、ポロックの作品ほど人々に愛されることはありえません。なぜなら、1999年、ナノ粒子物理学者であり画家でもあるリチャード・テイラーが、ポロックの絵には精密なフラクタル構造がみられるという衝撃的な論文をネイチャー誌に発表したからです。

フラクタル構造とはいったい何でしょうか。ポロックの絵が人々に愛されるのはどうしてでしょうか。どうしてそれが、タイトルに書いたようなADHD系絵描きさんと結びついてくるのでしょうか。

最近読んだNATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方というものすごく面白い本を参考に、彼の絵から学べることを記事にしておこうと思います。

ポロックの秘密を発見した物理学のアーティスト

ポロックの絵に秘められた驚くべき秘密、おそらくはそれはポロック本人さえもはっきりとは気づいていなかったものでしょう。それを発見したのは、今やポロック研究の第一人者として名を馳せている物理学者リチャード・テイラーでした。

テイラーは、10歳のときたまたまジャクソン・ポロックの絵画の目録を手に取ったことで、ポロックの芸術に心を奪われました。テイラーはナノ粒子物理学を専門としていますが、単なる科学者ではなく、芸術のふたつの学位をもつ画家また写真家でもあります。芸術的センスをもった科学者なのです。(p153)

テイラーは、マンチェスター・スクール・オブ・アートに在学していた頃、風でぐらぐらと揺れる振り子を作りました。風で飛び散る絵の具がどんな絵を描くか観察したところ、なんとポロックの絵画とそっくりな絵になることに気づきました。もしかすると、ポロックの絵が世界中で愛されるのは、自然界と共通する特徴が何かあるからなのでしょうか。

そこで彼は、自然界の風景とポロックの絵を、それぞれコンピュータで分析して比較してみることにしました。すると…

テイラーの説明によれば、ポロックは抽象画という手法で、実際には自然の風景を、すなわちフラクタルとして表現される自然の法則を描いていた。

人間の脳は自然界に似ているものを瞬時に見わけることができると、テイラーは考えている。ポロックが好んだフラクタルは、樹木、雪の結晶、鉱脈とよく似ている。

「ポロックが描いたパターンをコンピュータで分析し、森と比較したところ、瓜ふたつだった」とテイラーは言う。(p158)

テイラーは、ポロックの絵と、森の風景が瓜二つであることを発見しました!  もちろん似ていたのは形とか色そのものではありません。ポロックの絵と森の風景、さらには雪の結晶や鉱脈などに共通していたのは、「フラクタル」と呼ばれる独特なパターンだったのです。フラクタルとは何でしょうか。

フラクタルという概念を発見して名づけたのは 数学者のブノワ・マンデルブロだと言われています。彼は自然界のさまざまな風景の中に、特徴的なパターンの繰り返しが見られることに気づきました。たとえば雪の結晶は、拡大すると同じようなパターンが繰り返されてできていることに気づきます。巨大な樹木も枝分かれしていく繰り返しパターンで作られています。

それはちょうど、ロシア人形のマトリューシカのようなものです。同じ形の中にまた同じ形が、さらにその中にまた同じ形が、延々と入っています。大きさが変わっても、かたちのパターンはほとんど同じものが繰り返されていきます。自然界に見られる風景の多くは、繰り返しパターンで成り立っているので、一見すると複雑そうでも、じつはシンプルな方程式に整理できます。

ジャクソン・ポロックの絵も、これと同じフラクタルでした。つまり、ポロックの絵のどこか一点を拡大しても、拡大する前と同じような模様が続いていきます。それに対して、ポロック以外の画家や子どもの描いたアクションペインティングの絵は、拡大していってもフラクタル構造が見られませんでした。似ているようで決定的に違っていたのです。

テイラーは、この驚くべき研究成果を1999年、有名なネイチャー誌に発表しました。

「たしかに自然界にフラクタルのパターンがあることを発見したのは科学者だが、その25年も前に、ポロックは自然界のフラクタルを描いていたのだ!」

1999年、テイラーはこの発見を『ネイチャー』誌に発表し、芸術と物理というふたつの世界で注目を集めた。(p155)

この研究は衝撃的でした。わたしがどこかで読んだ本の著者が書いていたように、これまで、自分の子どもでもポロックのような絵が描ける、と鼻で笑っていた人は、考えを改めざるを得ませんでした。適当に絵の具を飛ばしてだけに思えた画家は、じつは科学者の発見を先取りするほど、美の本質を突いたテクニックを駆使していたのです。

前に読んだ芸術的才能と脳の不思議―神経心理学からの考察には、芸術家が科学者の発見を先取りすることは珍しくないと書かれていました。いつの時代も未知なるものの本質を突くのは、鋭い感性と直感力に満ちあふれた芸術家であり、科学者は緻密な理論と検証によって芸術家の直感を裏付けていくにすぎないのです。

芸術家の創造性はきわめて高く、時には芸術作品が正式な科学的発見に先行することもある(Shlain,1991)、

実際に視覚芸術家が、科学者たちに彼らの研究を新しい視点から見る機会を与えたことも多い。

高名な芸術家たちは、科学的研究により明らかにされた厳密な法則に束縛されることなく心を自由に飛翔させ、彼らの才能と知性を駆使してオリジナリティ豊かな作品を造りあげていくのである。(p13)

ともあれ、テイラーの研究はあまりに衝撃的だったため、その真価を試されることなくしては、受け入れがたいものだったでしょう。テイラーの研究が本物だと実証されたのは、その数年後、ポロックの未発表の作品の鑑定を依頼されたときでした。

2002年、ポロックの友人家族が所有する倉庫で作者不明の絵画が何枚も発見されると、テイラーはその真贋の鑑定を依頼された。テイラーにとっては重責がともなうと同時に自身の名誉をかけた鑑定となった。

…テイラーがコンピュータを使って分析したところ、これらの絵画にはポロックの署名ともいえるフラクタルの幾何学が見られないことがわかった。そこでこの物理学者は、どの絵画も贋作だという結論をだした。

大胆で物議を醸す鑑定だったが、のちに化学的な分析を実施したところ、使用されている絵の具はポロックが生きていたころよりもずっとあとの時代に製造されたものであることがわかり、テイラーはほっと胸を撫でおろした。(p156)

テイラーは、ポロックの未発表の絵画だとされるものをコンピュータで分析して、そこにはフラクタルが見られないことを確かめました。しかしてその大胆な鑑定結果は、のちに化学的分析によって裏付けられました。確かにフラクタルこそがポロックの作品の本物たる証また署名だったのです。

なぜフラクタルは愛されるのか

けれども、どうして、ポロックの絵は、テイラーはじめ、世界中の多くの人の心をつかんできたのでしょうか。自然界の中に見られるフラクタル構造が、ポロックの絵に見られるからといって、なぜ人々から好まれることにつながるのでしょうか。

わたしたちは本質的に自然が好きだから、自然が反映されたポロックの絵もまた好まれるのだ、という説明は、的を射てはいますが、さすがに短絡的すぎます。芸術家は直感には秀でていますが、なぜそうなるのか、という点を論理的に証明するには、科学者の手を借りなければなりません。

芸術家でもあり科学者でもあるテイラーは、はじめは直感的にポロックの絵と自然界の共通点に気づきましたが、その意味を解き明かすために科学の知識を活用しました。彼は、NASAの協力のもと、自然界のフラクタル構造が人間にどんな影響を及ぼすか調べました。

宇宙飛行士たちにフラクタルな画像を見せると、なんとストレスからの回復力が60%も向上しました。さらに別の実験では、前頭葉からα波が出ることがわかりました。α波は、目をさましているのにリラックスしている状態で出る特殊な脳波です。(p157)

しかし、この実験で興味深いのは、フラクタルな画像なら、どんなものでもいい、というわけにはいかなかったことです。フラクタル構造とは、同じかたちが延々と繰り返されていくものを言いますが、当然その複雑さにはさまざまな程度があります。ものすごく単純でシンプルなフラクタルもありますし、マンダラのような複雑な模様がこれでもかと入り組んでいるフラクタルもあります。

フラクタルの複雑さは、フラクタル次元(D値)という数値で設定でき、シンプルなフラクタルほどD値は低くなり、複雑なフラクタルほど、D値は高くなります。

NASAの実験では、宇宙飛行士たちのストレスが軽減したのは、フラクタル次元(D値)が1.3から1.5という、ほどほどに複雑な画像を見せたときだけでした。そして、あのポロックの絵のフラクタルのD値もその付近であり、さらには自然界のフラクタルもまた同じくらいの値でした。このことから、わたしたち人間が好ましく感じるフラクタルは、複雑でもシンプルでもなんでもいいというわけではなく、あくまでD値が1.3~1.5のほどほどのフラクタルに限定される、ということが明らかになりました。

じつは、フラクタル構造というのは、雪の結晶など自然界に特徴的だとよく言われますが、自然界だけに見られるものではありません。人工物であってもフラクタルな構造を持っているものは多くあります。例えば、大都市の景観も一種のフラクタルです。

でも、自然界のフラクタルを眺めるときに脳で生じるα波は、大都市のフラクタルの中を歩いている時には生じません。それは、自然界のフラクタルと、大都市のフラクタルとでは、複雑さを示すフラクタル次元(D値)が違うからです。

例えば、こちらの研究では、日本の都市のフラクタル次元が測定されていますが、名古屋市や金沢市のD値は1.96もありました。一般に大都市になればなるほどD値は上がっていくと書かれています。対照的に津市は1.59、大津市は1.36だったらしく、自然界の数値に近くなっています。10年以上前の研究なので、今はもうこれらの都市のD値も高くなっていそうですが、わたしたちが田舎の街にいくとのんびりできるのは、D値の度合いが自然界に近いからなのかもしれません。

都市が発展するほどD値が上がることからわかるように、時代によって都市のフラクタルの度合いも変わります。この研究によれば、明治時代は1.236、大正は1.343、昭和後期は1.788とされています。場所によっても違うので一概には言えませんが、近代になればなるほどD値は自然界やポロックの絵から遠ざかっています。わたしたちが、明治や大正の風景を見ると、どこか心休まるのは、単にノスタルジックだからだけではなく、フラクタル次元が自然界に近いことも関係してそうです。

このあたりのポロックの絵のフラクタルの話は、こちらの方の記事が図入りで詳しいです。わたしはものぐさなので、図解はめんどくさくてできません(笑)

ジャクソン・ポロックのドリッピングを科学する。 | やまでら くみこ のレシピ

でも、謎はさらに深まります。どうして、フラクタル次元のD値が1.3~1.5、つまりほどほどのフラクタルのときだけ、ストレスが減り、脳がリラックスするのでしょうか。ただ自然界に似ているから、という理由では納得できません。

そこで、テイラーたちがさらに調査したところ、どうやら、ほどほどのフラクタルは、わたしたちの認知機能に影響を与えているらしいことがわかりました。

テイラーとハイェルヘが視線測定器を利用し、被験者の瞳孔が画像―たとえばポロックの絵画など―のどのあたりに向けられているのかを詳細に調べたところ、瞳孔が動くパターンそのものがフラクタルであることがわかった。(p159)

フラクタル構造を見ているとき、なんと、わたしたちの目の動きそのものが、そのフラクタルに同調していることがわかったのです。

もしわたしたちが、D値がほどほどな自然界やポロックの絵を見ている場合は、目の動きもまたほどほどになるのに対し、D値が複雑な都市の風景を見ているときには、目の動きのパターンも複雑になっているということです。目の動きが複雑だということは、情報量が多すぎて、処理するのに時間がかかっているということでもあります。

わたしたちは、目で見た風景から情報を読み取って処理していますが、科学者たちが調べたところによると、一番効率よく情報を引き出せるのは、D値がほどほどの時でした。

ほかの科学者たちも、この中等度のフラクタル次元が、対象物を認識し、その名を述べるテストでもっとも速い反応を引きだすことを発見した。(p160)

反対に、D値が大きい都市の風景などを見ていると、複雑すぎて、情報処理に負担がかかっていました。

目の前の光景が、たとえば都会の交差点のようにあまりにも複雑である場合、脳はそうした情報をすばやく処理することができず、無意識にであれ不快感を覚える。(p160)

情報処理が複雑な風景を見ていると、「無意識にであれ不快感を覚え」ます。

言ってみれば、難しい本を読むときと、簡単でわかりやすい本を読むときの違いと同じです。カジュアルなライトノベルや絵本を読むときは寝転がりながらぼーっと読めますが、論文を読むときには無意識のうちに顔をしかめて身構えてしまうものです。わたしが今書いててる文章は…わかりやすく書こうとしていますが、けっこう読む人には認知負担が高めかもしれませんね(笑)。楽に楽しく読める本は無意識に好印象を覚えるものですが、難解で専門用語だらけの本は、二度と読みたくなくなります。

これと同じことが、風景でも起こっているようです。たとえ同じフラクタル構造を持つ風景であっても、ライトノベルや絵本のような情報を読み取りやすい風景であれば比較的リラックスできるのに対し、難解な論文のような都市部の風景は、認知に負担をかけるので不快感を覚えます。うちの親は、ダンジョンみたいだと言われる新宿駅に全然行きたがりません。

絵の場合も同じで、フラクタル次元が自然界の数値に近いジャクソン・ポロックの絵は、見る人にとって認知負担が軽く、リラックスできるものなのでしょう。それに対し、ポロック以外の画家や子どもが描いたアクションペインティングの絵は、一見似ているようでも、D値が複雑だったり、そもそもフラクタル性がなかったりするので、ポロックの絵のように好ましいとは、あまり感じてもらえないのでしょう。

「きみの視覚系にはフラクタルを理解する機能が組み込まれている」と、テイラーは言う。「視覚系のフラクタル構造が、視野に入ったフラクタル映像と適合すると、生理学的な共鳴が起こり、ストレスが和らぐ」

つまり自然のなかに身を置いていると心地よいのは、生きとし生けるものに生来の愛情をもっているからでも、絶景を目にしたときに身震いを覚えるからでもなく、ただたんに視覚がスムーズに情報を処理できるからなのかもしれない。

外界の刺激(たとえば樹木)が脳内のニューロンによって処理されるプロセスと調和しやすいからなのかもしれない。(p160)

もっとも、ポロックの絵が好まれるのは、認知の負担が楽だから、という理由だけでないのは確かです。もし好まれるか好まれないかが、D値だけで決まってしまうとしたら、あらゆる場所に理想的なD値を持つ写真を飾っておけばそれでめでたしめでたしです。きれいな風景写真なら何でもよくて、わざわざポロックの絵を飾る必要なんてありません。実際、それに似た研究が大真面目に学会で発表されていたりします。

でも、実際のところは、どんな風景写真もポロックの絵の代わりにはなりませんし、その逆もまたそうです。わたしたちが何を好みまた何を不快に想うかは、生まれつきの脳の仕組みだけでなく、一人ひとりの経験によっても変わってきます。たとえば食品会社は、人間の味覚を分析して大多数の人が好む味を作り出せますが、一人ひとりがそれを好きになってくれるかどうかは予測できません。食べものの好みは実に様々です。同じように、わたしたち人間の視覚系には、ポロックの絵や自然界の風景を好ましく感じやすいという傾向はあるものの、一人ひとりの好みはもっと多様です。

わたしたちがフラクタルを芸術に活かすには?

ではわたしたちが、このフラクタルの効果を活かすにはどうしたらいいのでしょうか。

ポロックを真似て、フラクタルのD値が1.3~1.5の絵を描けばいい、なんて言いたいところですが、あれはポロックの画風だからこそ成り立つものであり、あらゆる芸術に当てはめることは不可能です。もっとも、ウォータールー大学のデルチョ・ヴァルチャノフという人が、スマホで映した風景の好ましさを数値化するアプリを作ったらしいので、それで自分の絵を撮影すれば理想的かどうか判定してもらえそうですが、さすがに遠慮します。(p165)

そうではなく、わたしたち自身がフラクタルな風景を活用して、自分の創造性を高める、という方向性のほうが有意義だとわたしは思います。

さっきみたように、自然界のフラクタルな風景を見ていると、ストレスが低下し、リラックスできるという研究がありました。別の研究では、もっと詳しいことがわかっています。

クオと同僚のウィリアム・サリヴァンが145人の女性の住人(その団地の住人の大半がシングルマザーだった)に聞き取り調査を実施したところ、窓から木が見える部屋の住人より、アスファルトの風景しか見えない部屋の住人に、心理面での攻撃性、軽中等度の暴力性、あるいは重度の暴力性が見られることがわかった。

またべつの研究では、アスファルトの景色しか見えない部屋の住人には、やるべきことをぐずぐずと先延ばしにし、人生の苦難を長く深刻なものとして認識する傾向が見られることがわかった。(p151)

なんと、同じ団地の住人でも、窓から自然の風景が見えるかどうかで、性格が変わってしまっていました。自然の風景が見えない部屋の住人は、イライラしたり、ぐずぐずしたり、憂うつだったりする傾向が強かったのです。

たかが窓から自然が見えるだけでそんなに変わるものなのか、と思いますが、こうした傾向は数多くの実験で繰り返し実証されているそうです。たとえば、同じ住宅街でも、自然の風景が見える場所かどうかで犯罪件数が全然違っていたという研究もあれば、同じ刑務所の囚人や、同じ病室の入院患者でも、自然の風景が窓から見える場所のほうが健康状態がよかったという研究もあります。

自然の風景が見えるかどうかで、こんなにも性格や健康状態が変わってしまうのは、さっき見たように、自然の風景がほどほどのフラクタルであるおかげで、脳の負担が軽くなるからでしょう。

この考えは、ミシガン大学の環境心理学者である、スティーヴン・カプランとレイチェルカプラン夫妻が提唱した、注意回復理論(ART:Attention Rest0ration Theory)という理論にもとづいています。(p74)

注意回復理論によると、イライラしたり、ぐずぐずしたり、憂うつになったりするのは、周囲の環境から受け取る情報が、わたしたち人間の脳が処理できるキャパシティをオーバーしてしまっているときに起こる、とされています。要するに、頭に余裕がなくなっているということですね。

びっくりするような話ですが、スタンフォード大学の神経科学者ダニエル・レヴィティンによると、「人間の脳の処理速度は120ビット/秒で信じられないほど遅い」のだそうです。(p66)

これはつまり、わたしたちの脳は、自分で思っているよりもずっとたやすく周りの情報に圧倒され、キャパシティをオーバーしてしまうということです。古いスマホは、重いアプリを使うとカクカクになったりフリーズしたりするものですが、わたしたちの頭でも同じことが起こっています。

わたしたちがイライラしたり、ぐずぐずしたり、憂うつになったりしてパフォーマンスが低下してしまうとき、じつはそれは、まわりの情報が多すぎるからなのかもしれません。最近よく言われる情報ダイエットが必要かもしれませんし、それ以前に、無意識のうちにフラクタルのD値が高すぎる風景を日常的に見ていることが、知らず知らずのうちに脳に負担をかけているのかもしれません。

ADHD系作家さんが創造性を伸ばすために

イライラしたり、ぐずぐずしたりする人の代表格は、いわゆるADHDと呼ばれる人たちで、わたしもその一人です。わたしだけでなく、創作が好きで、芸術家肌の人の中には、診断されていようがいなかろうが、ADHDっぽさを持っている人はかなり多いのではないかと思います。

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今回の記事の主役であるジャクソン・ポロックも、今なら、ADHDと診断されていたかもしれない人でした。ADHDっぽい性格でもなければ、アクションペインティングのような奇抜に思える技法を開拓したりはしなかったでしょう。

ADHDの人は、遺伝的に不注意だったり、落ち着きがなかったり、なかなか集中できなかったりしますが、最近の研究によると、本当の問題は、感受性の強さにあるのではないか?と言われています。

感受性が強ければ、まわりの情報をたくさん受け取りやすいので、たやすくキャパシティオーバーに陥ってしまうでしょう。そうやって脳に負担がかかりすぎた結果として、注意力散漫になったり、落ち着きがなくなったり、うっかりミスばかりしてしまっているのではないか、ということです。

現に、人いちばい感受性が強い子についての研究では、感受性の強い子は、刺激の多い環境に行くと落ち着きがなくなってADHDのようになるけれども、刺激の少ない環境に行くと落ち着きが戻る、と言われています。

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今回の本でも、ADHDの子についての研究で、同じことがわかっています。

公営住宅の窓から見える景色の研究で有名なイリノイ大学のフランシス・クオは、ADHDと戸外での活動の関係も研究した。彼女の研究は小規模ではあったものの、じつに示唆に富んでいた。

ある実験で、ADHDの子どもが室内ですごした場合と自然のなかですごした場合を比較したところ、自然のなかですごすとADHDの症状が3分の1に減るとわかった。

べつの実験では、8歳から11歳のADHDの子ども17人に、ガイドと一緒に3つの異なる場所を20分間歩いてもらった。住宅街、都会の繁華街、公園の三か所だ。公園を歩いたあとは、数字を逆の順番で記憶するテストの成績がいちじるしくよくなった。(p304)

ADHDと診断された落ち着きのない子は、自然の中、つまりフラクタル次元がほどほどで、認知処理の負担が少ない環境で過ごした場合、落ち着きのなさなどの症状が減って、記憶力も上がりました。注意回復理論(ART)の名前どおり、負担が少なければ、注意力は回復することが確かめられたのです。

このことからすると、わたしを含め、ADHDの子が、不注意だとか、うっかり屋さんだとか、落ち着きがないとか言われてしまうのは、どうやら本人の頭に欠陥があるわけではないらしい、ということになります。もし本人の頭に欠陥があるのだとすると、環境を変えようが、どこに行こうがポンコツのままでしょうから。

ADHDという病気が注目され始めたのは、学校教育が登場した時期と一致しているといいます。それ以前の社会では、ただ感受性の強く個性的で、むしろ創造性豊かだとさえみなされていた子どもが、狭い部屋に閉じ込められて勉強させられることが一般的になったせいで、脳に必要以上の負担がかかり、問題行動を起こすようになったのではないか、と考える学者が増えてきました。

さまざまな未知のものがうずまく世界で刺激を受けていると元気が出るタイプの子どもは、学校で一日中座って過ごしていると生気を失ってしまう。ところが産業化の時代を迎えると、子どもはおしなべて教室で勉強すべきだという標準化教育を、教育界が重視するようになった。

「ADHDはいまから150年前、義務教育が始まると同時に生まれたのです」とカリフォルニア州バークレー校の心理学者スティーヴン・ヒンショーは言う。「この意味では、ADHDは社会の変化によって生み出された概念といえるでしょう」

ヒンショーによれば、ADHDの子どもは従来の学校の授業では退屈し、うまく順応できないと感じる場合が多く、さらに規則が厳しい環境のせいで症状が悪化するという。(p305)

ADHDの子どもは、おそらく遺伝的に、感受性が豊かなため、環境からくるストレスを強く感じやすいのだと思います。

普通の子は、学校のような狭い無機質な場所に閉じ込められてもあまり苦にならないのかもしれませんが、環境に敏感な子は、そうはいきません。

学校の教室は複雑で、自然界からは程遠い情報量で満たされています。毎日毎日、刺激も情報量も多すぎる環境に無理やり放り込まれ、脳の情報処理能力が慢性的にキャパシティをオーバーしてしまうので、いつも落ち着きがなく、不注意になってしまうのでしょう。

そうした子どもは、もともと感受性が強すぎるだけであり、障害があるわけではありません。今の医療では、落ち着きのない子どもは発達障害だから、やれ治療しましょう薬を飲ませましょうとなりますが、問題があるのは、本人ではなく環境のほうだとすると、それはおかしな話です。実際、環境次第で薬は必要なくなるのではないか、と思えるデータがあります。

フィンランドでADHDと診断される子どもの割合は、アメリカと同程度だという調査結果がある。その割合は約11%で、大半が男子だ。とはいえ、ADHDと診断されたアメリカの子どもの大半が薬を飲んでいるのに対して、フィンランドでは薬を服用している割合が低い。(p311)

アメリカでもフィンランドでも、ADHDと診断される子どもの割合は変わらない、ということからすると、どの文化にも感受性が強く、活動的な子どもがいることは確かです。

けれども、アメリカでは薬を使わないといけなかったのに、フィンランドではほとんど薬が要りませんでした。アメリカではフラクタル次元が複雑な都市部のせいで、脳にいつも負担がかかるのに対し、自然豊かなフィンランドではフラクタル次元がほどよく、感受性が豊かな子でもすくすくと育ちやすいのかもしれません。(p312)

認知負担が少ない自然の中ではなく、都市部の環境で育つと、ADHDの症状が悪化しやすいことを示す証拠はほかにもあります。

自然の風景を眺めているときには時間をかけてゆっくりと視線を這わせているのに対して、都会の風景を眺めているときには視線が頻繁に「固定」するうえ、まばたきの回数が増えることがわかった。

それは、目―つまり脳―が景色の構造を読み解こうと懸命になっていることのあらわれだ。都会の風景は、わたしたちに注意を向けるよう強制するのだ。(p172)

ここでは、都市部の風景を眺めていると、複雑さを読み解くために視線が頻繁に固定する、と書かれています、これは専門的な言葉では、目のサッケード運動(眼球のスムーズな動きを意味する)の異常、というものです。そしてADHDの子ではサッケードに異常があることが最近言われるようになっています。

ADHDの子にサッケードの異常がみられるのは、都市部のように情報量の多い景色に圧倒されてしまい、目がスムーズに動かなくなってしまうからかもしれません。目の動きは注意力と直結しているので、その結果、不注意や落ち着きのなさが生まれてしまいます。感受性の強い子にとって、現代社会は情報量が多すぎるのです。

ではどうすればいいのか。

ポロックはどこでドリップペインティングを思いついたのか

今回の記事は、ジャクソン・ポロックの絵の秘密についての記事でした。それなのに、ADHDの話になってしまい、なんだか脱線してる、と思われてしまったかもしれません。でも、わたしはそうではなくて、これは全部つながっていると考えています。

さっきちらっと書いたように、たぶんジャクソン・ポロックは、生まれつきADHDの傾向を持つ人だったろうと思います。ADHDの絵描きさんは、模写や伝統絵画に取り組む代わりに、新しいことに挑戦したり、フィールドワークをしたり、奇抜なアイデアを思いついたりするものですが、ポロックは見事にそんな要素を兼ね備えています。

上の記事で書いたように、ADHDの人は、生活が不規則になったり、何かに依存したりしやすいところがあります。ジャクソン・ポロックも、アルコール依存症になって苦しんでいました。

でも、ポロックは、アルコール依存症を乗り越えて復活し、アクションペインティングを生み出しました。いったいどうやったのでしょうか。前に読んだ天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々のエピソードを引用してみます。

1945年、アメリカの抽象画家ポロックは、妻であり画家仲間でもあるリー・クラズナーとともに、ニューヨークからロングアイランド東部のスプリングズという小さな漁村へ引越した。

クラズナーはポロックを都会から引き離すことで、彼の飲酒癖がなおるのではないかと期待していた。クラズナーの予想は当たった。

ポロックは酒をやめたわけではなかったが、飲み仲間もおらず、毎晩のように催されるパーティーもなくなると、深酒する回数はめっきり減り、また絵を描きはじめた。

じっさい、スプリングズで過ごしたその後の数年間は、ポロックにとって、おそらくもっとも幸せで、もっとも多くの作品を生み出すことのできた時期だった―ポロックを有名にしたドリップペインティングの技法を開発したのもこの時期だった。(p305)

ポロックは、都市部から農村に引越したのです。フラクタル次元が1.8か1.9もあるような複雑なところから、フラクタル次元が1.3~1.5の自然あふれる農村へと。すると、アルコール依存症が治ったばかりか、創造性がぐんぐん回復し、ついにはドリップペインティングを開発しました。そうして描かれた絵が、自然界と同じD値という神業のような特徴を持っているのは果たして偶然でしょうか。

これはあくまでわたしの思いつきにすぎませんが、もしかするとポロックは典型的なADHDで、都市部の情報量の多い生活に疲弊して、そのせいでアルコール依存症になっていたのではないでしょうか。しかし農村部に引越し、毎日妻とビーチを散歩するようになると、脳の負担が減り、本来の感受性の強さが解放されました。そのおかげで、脳の処理能力に余裕が生まれ、生涯で最高のクリエイティブな時期を過ごすことができました。彼は、自然界のほどよいフラクタルな風景によって癒やされたので、意識していたか無意識であったかはわかりませんが、それを芸術に反映させるようになり、こうして奇跡のようなD値1.3~1.5の絵画が生まれたのではないでしょうか。

残念ながら、ポロックが漁村で過ごしたのはこの数年間だけで、その後もとの生活に戻るとともにアルコール依存症が再発し、若くして亡くなりました。晩年は絵のD値も自然界の値を超えて複雑になり、スランプに陥ったとも言われていました。フィンランドのADHDの子は薬を飲まないでも安定していましたが、アメリカのADHDの子はそうではありませんでした。ポロックも、漁村にいるときは本来の自分を取り戻せたのに、大都会の喧騒に戻ってしまうと、アルコールという「薬」なしでは生きられなかったのかもしれません。

ジャクソン・ポロックが、数学者のマンデルブロよりも先にフラクタルの概念を先取りしていたとか、ふつうの画家には描けないようなフラクタルを再現していた、というと、彼がとんでもない天才だったかのように思えてしまいます。確かに天才だったのかもしれませんが、どんな天才でも、何もないところからひらめいたりしません。ポロックは、その生まれついた感受性の強さゆえに、都市部で生活していたときは圧倒されていましたが、その感受性のおかげで、自然界のフラクタルによる癒やしを人いちばい味わうことができ、それを芸術へと昇華できたのではないでしょうか。自分自身がまず、自然界のフラクタルが持つ素晴らしさを心底味わったからこそ、技法として取り入れることもできたのです。

そのようなわけで…

もし、ポロックのように、生活習慣が乱れたり、スランプに陥って抜け出せなくなっているようなADHDの作家さんがいたら、ポロックの足跡に倣ってみるといいのかもしれません。大都市から農村に引っ越すとなるとハードルが高いですが、今回読んだ本には、まず一ヶ月に五時間、自然の中で過ごしてみよう、という提案がされていました。さすがにうつ病や、ポロックのアルコール依存症みたいなもっと大きな問題の場合は、それでは足りないようですが。

一ヶ月に五時間、自然のなかですごしましょうという提案を実行すれば、日々の雑事に追われ、一服の清涼剤を求めている人たちにはたしかに効果があるだろう。

でも、仕事でくたくたになっているわけではない人の場合は? それよりもっと深刻な問題を抱えている人はどうすればいいのだろう? 

その答えが知りたいのなら、スコットランドやスウェーデンの人たちのアドバイスに従おう。重度のうつ病を患う人を森や庭に送り込み、そのまましばらくすごしてもらうという研究をすでに実施しているからだ。どうやら、効果をあげるには12週間、必要らしい。(p200)

いきなりそんなことを言われても無理! という人の場合は、とりあえず、今回わたしが読んでいた本、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 はかなりおすすめです。タイトルからするとなんだか自己啓発本っぽい響きですが、原題は「The Nature Fix」(自然が修理する)の部分であり、ちゃんとした学問的な本なのでご安心を。というか、最近読んだ本の中では抜群に面白くて、しばらく興味が尽きなさそうです。よくある医療の本じゃなくて、創造性を高める科学的研究をまとめてくれているので、読んでいて気分が明るくなります。

この記事では、ポロックの絵とのつながりの都合から、目に見えるフラクタルの話ばかりしてしまいましたが、この本では他のさまざまな五感のことも扱われていました。大事な要素は視覚的なものだけではありません。都会にいたまま、壁にポロックの絵をかけたり、風景写真を眺めたりするだけでいい、というわけではありません。フラクタルな絵や写真を見るのは確かにちょっとは効果があるでしょうが、わたしたちの五感は視覚だけではありませんし、そもそも自然界のフラクタルは静止画ではありません。

フラクタル構造が人をリラックスさせるのは、単に脳にとって負担が軽い、というだけでなく、脳の血流や神経細胞の働きそのものが、フラクタル構造に共鳴するからだそうです。

テイラーが実際には調和ではなく「共鳴」という単語を用いたのも興味深い。かのベートーヴェンが狭苦しいウィーンを離れ、田舎に出かけたとき、彼はまったく同じ単語を使って表現している(本書の「プロローグ」で紹介した)。

「低木、木立、森、草地、岩場を歩けることのよろこび! 森、木立、岩々を眺めていると、人間が欲する共鳴が伝わってくる」

フラクタルが発見されるはるか以前から、ベートーヴェンは五感と自然の強い結びつきを直感で察知していたのだ。(p160)

フラクタルのパターンは、自然界の風景だけでなく、音やにおいや、五感すべてで感じる複合的な(クロスモーダルな)感覚すべてに組み込まれているのでしょう。フラクタルな画像を見ているときに活性化する海馬傍回という場所は、音楽を聴いているときにも活性化するそうです。視覚のフラクタルも、音のフラクタルも、どちらも脳をリラックスさせます。(p158)

フラクタルを見ると目の動きがフラクタルになるのはさっき書いたとおりですが、脳のニューロンをめぐる電流のパターンもまたフラクタルになるそうです。目の動きが脳のニューロンによってコントロールされていることを考えればそれも当然かもしれません。(p154)

けっきょく、フラクタルは自然の奥深くに組み込まれた造物主の署名のようなものであり、やはり自然の一部である人間の奥深くにもまた同じものが刻み込まれているのです。そのあたりの話は、31歳で天才になった男 サヴァンと共感覚の謎に迫る実話という、脳損傷を機にフラクタルが見えるようになってしまった男性に関する、これまた興味深い本に詳しいのですが、また別の記事にて。

わたしも今はあまり自然に触れる機会の少ない生活を送っていますが、この本を読んで、もう少し生活を見直そうと思いました。あわよくば、どこか自然豊かなところに引っ越す機会を見つけたいものです。ムーミンの作者のトーベ・ヤンソンも、ピーターラビットの作者のビアトリクス・ポターも自然豊かな場所で創作のヒントを得たことを思えば、フラクタルに囲まれた場所でこそ、本当の創造性は発揮されるのでしょう。

ジャクソン・ポロックはそのたぐいまれな絵画をもってフラクタルのリラックス効果について教えてくれましたが、それ以上にフラクタルな環境の中で創作することの価値を身をもって教えてくれた、ということをこれからもしっかり覚えておきたいです。

投稿日2017.12.21