ギフテッドという言葉を知っていますか?
ギフテッドとは、生まれつき特別な才能という贈り物「gift」を授かったとされる、天才児たちを指す言葉だそうです。その才能にはさまざまな種類がありますが、なかには芸術的才能に秀でた子もいます。
ギフテッドの子は、普通の学校生活では周りの子と能力の差がありすぎるせいで、うまく馴染むことができず、諸外国では「ギフテッド教育」という特別支援教育が行われています。日本でも、2014年、東大のROCKETというギフテッド教育プロジェクトが始まりました。
そのROCKETの第一期生に選ばれた濱口瑛士くんの作品集、黒板に描けなかった夢~12歳、学校からはみ出した少年画家の内なる世界 を読んでみました。
わたしも一応、学校で苦労して不登校になった過去があって、瑛士くんと同じように絵や文章をかくことが好きです。この作品集を読みながら、ギフテッドとはどんな子たちなのか、自分と似たところがあるのか、どんな絵の才能があるのか、といったことを考えてみました。
もくじ
東大ギフテッド教育プロジェクト「ROCKET」とは?
わたしがこの本に興味をもったのは、ただ絵の才能がある少年の本だったから、というわけではありません。その子が、ROCKET – 異才発掘プロジェクトに選ばれた一人である、ということを知ったからでした。
「ROCKET」とは、東京大学先端科学技術研究センターと日本財団の共同プロジェクトで、ユニークな才能を持つ子どもたちに、個性を伸ばせる教育をを施し、将来の日本に革新をもたらす人材に育て上げていくという、いわゆる日本におけるギフテッド教育の先駆けです。
「ギフテッド」つまり、神様から才能という贈り物を授かった子、という概念は、アメリカなどではよく知られていて、特別な教育クラスが設けられているといいます。ギフテッド 天才の育て方 (ヒューマンケアブックス) にはこう書かれていました。
アメリカ合衆国で約200万人の子どもたちが、天才児のための特別支援教育プログラムを受けていることをご存じだろうか。
…なぜ天才児に特別支援教育が必要なのだろうか。それは、著しい才能の凸凹をもつ者にとって集団教育の場は、適応が難しいからである。
よく言われるように、低い者に合わせれば、高い者は退屈してしまい、高い者に合わせれば低い者がついていけない。(p14)
ギフテッドは才能ある子、といっても、一見そうは思えず、学習障害を抱えていたり、不適応を起こして不登校になったり、問題児だったりすることも多いようです。日本ではそうした子は「発達障害」とみなされてしまいますが、そうではなく普通の子どもと同じ教育では物足りない特別なニーズを持った子、とみなして、特別な支援と教育の場を提供するのが、ギフテッド教育の特徴です。
今回読んだ本では、ギフテッドについてこう説明されていました。
「天才」「偉人」と呼ばれる人物には、幼少期にこういった「他の子と違う」苦労や困難を抱えていた人が多い。モーツァルトやピカソ、アインシュタイン、ジョン・F ・ケネディ、スティーブン・スピルバーグ、スティーブ・ジョブズなど、枚挙にいとまがない。
現代では「発達障害」とカテゴライズされてしまうことも多いが、そんな「普通と違う」子は、普通と違うことこそが長所であり、驚くべき可能性を秘めているのだ。(p18-19)
日本では長らくこうした子を対象とした教育の場が欠けていたのですが、ようやくギフテッド教育が注目されはじめ、その先鋒を切って登場したひときわ大きなプロジェクトが東京大学先端科学技術研究センターの「ROCKET」だといえます。
ROCKETは2014年12月に開校するにあたり、小学三年から中学三年の、不登校などで学習機会を失っている子、自分の興味への探求心を持つ子たちを対象に一期生を募集しました。
そこに応募した600人のうち、選ばれたのはたった15人。そのROCKETスカラー生のうちの一人が、この作品集の著者である、濱口瑛士くんでした。
瑛士くんは、3歳から絵を描き始め、多い時には1日100枚も描くとのこと。そして、「絵と作文。話を理解したり、考えたりするのも得意」なんだそうです。(p16)
もともといた学校ではいじめられたり理解されなかったりして窒息しそうなほど追い詰められていましたが、ROCKETに入ったことで、ごく自然に友だちができ、同レベルの会話を楽しめるようになったとのこと。
私はロケットに参加するようになって解ったことがある。私のように変わり者で学校に居場所がなく、いじめを受けている子たちへ伝えたいことができた。それは、
「学校というのは小さな小さな世界で、そこに居場所がなくても、外の世界に飛び出せば、意外と身近に自分の居場所があったりする」
ということ。(p8)
この瑛士くんの言葉は、わたしが以前に書いた、不登校の子に向けた記事と通じるところがあります。能力の凸凹があって、学校では苦労して落ちこむことがあっても、才能もまた秘められているはずなので、狭い世界にとらわれず、我が道を行けばいいということ。
こんな記事を書いたことからもわかるように、わたしは不登校になるような子が秘めている才能、それを開花させることを目的としたギフテッド教育に大いに関心がありました。
わたし自身、不登校になって苦しんだ経験があるので、ギフテッド教育とはどんなものなのだろう、もしもわたしが子どものころ、そういう場があったら、何か変わったのだろうか、と思ったものです。
さらに、わたしは、子どものころから絵を描くことが好きで、文章を書くのは得意でした。この本で瑛士くんが同じように、得意なことは「絵と作文」だと述べているのを見たとき、もしかすると、同じタイプの人なのかな、と興味を惹かれました。
はたして、自分は、彼と同じような特殊な子どもだったのか。ギフテッドと呼ばれるような子とわたしには、どんな共通点や相違点があるのか。
自分の過去と照らし合わせながら読んでいくことにしました。
瑛士くんの絵の描き方からわかること
まず注目したのは、やはり絵の能力。
この本は、ほとんどのページが、瑛士くんの絵と物語の作品集にあてられていますが、巻頭のインタビューなどで、描き方が説明してあって興味深く思いました。
まず、なぜ絵を描くのか、という問いに彼はこう答えています。
絵を描くことは自分にとって生活の一部で、表現方法でもあり、ストレス発散手段です。
描くことにそんなに理由はなくて、ただ自分の頭の中にあるものを出したいからです。
その作業なしでは、イメージが体の中に溜まってどうしようもなくなってしまいます。(p10)
この感覚は、わたしもすごくよくわかります。何か頭にアイデアが浮かぶと、それを形にしてアウトプットしない限り、頭が圧迫され続けてしまってほかのことが手につかなくなってきます。
いわゆる心理学でいうところの「ザイガルニック効果」、つまり完了していないタスクは頭の中にずっと居座り続けて処理能力を圧迫するというやつです。
たぶん、瑛士くんとかわたしみたいなタイプは、人よりも頭のなかにイメージやアイデアが湧きやすいので、圧迫される量も多いのでしょう。瑛士くんはどうかわかりませんが、わたしの場合はワーキングメモリが少なくて、すぐ容量がいっぱいいっぱいになってしまうこともありそう。
だから、わたしにとって絵を描くこと、文章を書くことは、単なる趣味ではなくて、生活必需品です。前に書いたように、創作していないと死んでしまう人種なんですね。
いつも「時間がない」あなたに 欠乏の行動経済学 (早川書房)によると、不安や貧しさなどで頭のワーキングメモリが圧迫されると、能力が低下し、精神状態も悪くなるとされていますが、わたしの場合も頭に溜まったものを創作によって発散しないと、何も手につかなくなって気分も優れなくなってしまいます。
だからこそ、わたしは、たとえ仕事などの社会的責任を減らしてでも、文章や絵を創作する時間はたくさん取り分けるつもりです、まわりからは好きなことばっかりして遊んでいると思われるかもしれませんが、本当は生きるためにやっている。そういう運命に生まれついてしまったのだからしょうがないと思います。
頭の中に広がる映像世界
わたしの場合は、頭の中を圧迫するアイデアは突発的、断片的なものですが、瑛士くんの場合はちょっと違うらしい。彼は、それが動画のように再生されると述べています。
頭の中に、映画みたいに映像と物語が同時に出てきて、それを一時停止して絵を描いている感じです。(p10)
これを読んで思い出されるのは、以前の記事で取り上げた天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル (こころライブラリー) という本に書かれていた「映像思考」。さきほどのギフテッドの本と同じ著者によるものです。
視覚優位のアスペルガー症候群の人たちの中には、動画のような映像が頭のなかで再生される人がいるらしく、その一例として建築家のアントニ・ガウディが挙げられています。火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF) に出てくる有名なアスペルガーの動物学者テンプル・グランディンもそんなことを言ってますね。
わたしの心はコンピュータのCD-ROMに似ています。すぐ再生できるビデオにも似ています。でも、いったん再生しはじめたら、全部を再生しなければならないのです。(p380)
残念ながら、わたしにはそんな特殊能力はないですが、寝る前とか車の中などの暇な時に見る白昼夢がそれに近いのかもしれません。そのあたりのことは、わたしの「持続的空想」についての記事でも書きました。
瑛士くんの作品を見ていると、SF寄りのファンタジーの物語が脈々と続いていて、わたしの持続的空想とよく似ている気がします。空想世界の登場人物が勝手にストーリーを織りなしていくんでしょう。
瑛士くんが3歳のときに出会って、「友達というか、家族」だと述べている「どっちゃん」は空想の友だち(イマジナリーコンパニオン)に近いものなのかなぁとも感じました。(p12)
しかし、わたしの持続的空想の場合、自分が主役で、人間の仲間たちと繰り広げるドラマが中心なのに対し、瑛士くんの場合は、人間は自分も含めて一人も出てこなくて、わたしの空想よりもよっぽど風景のイメージが鮮明なようです。
瑛士くんは、頭のなかのイメージを絵に写し取ろうとして、一日に100枚も書くときがあるそうですが、わたしは持続的空想の内容を、絵に逐一残そうとしたことはありません。持続的空想の中の物語は、見ただけで満足してしまって、簡単にあらすじを日記にメモしておくくらい。
瑛士くんのイメージがどんなものなのか、はっきりわからないのでなんとも言えませんが、彼の場合はわたしよりも映像要素が強くて、わたしの場合は会話要素が強い気がします。瑛士くんの頭の中に流れるのがアニメみたいなものだとしたら、わたしの場合は群像劇のアドベンチャーノベルなのかもしれない。たぶん似ているようで別物なんでしょう。
面白かったのは、瑛士くんが、自分のキャラクターのひとつの「ファル」についてこう言っていること。
Q “ファル”はなぜ黄色いの?
A 鳥だから。(p13)
最初この部分を読んだとき、うちのネコのファンタスの話にそっくりだわ、と吹き出してしまいました。
「ファンタスはなぜ黄色いの?」と言われたら、わたしは「ファンタスティックだから」と即答してたんですよね。わたしとそっくりだ、とひとしきり笑ったあとで続く文脈を読んではたと気づく。
わたしの「ファンタスティックだから」は意味が通じないけど、瑛士くんの「鳥だから」は、続きを読むと、ヒヨコだから、という意味で実は論理的な答えなのでした。わたしの場合は、多分共感覚でファンタスティック=黄色というイメージがあるせいので、全然違いますよね。突拍子もない連想ばかりのわたしの頭と一緒にしてはいかんかった(笑)
細部から描き始める細かい絵
瑛士くんの絵には別の特徴もあって、彼が描く様子を見ていたROCKETディレクター中邑賢龍さんがこう書いています。
絵の才能のある子はたくさん見てきましたが、瑛士君の絵を初めて見た時は驚きました。描き方が面白いのです。
普通の人は、全体の輪郭から絵を描き始めますが、瑛士君の場合は、要素から描き始めて、それを積み重ねることで全体ができていきます。
…彼の絵は細かい所から始まって、だんだん外へと広がっていきます。(p22)
瑛士くんの絵は細部から描き始めて全体に広がっていく、と書かれています。
これとよく似た描き方をしているのが、オリヴァー・サックスが、火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF) の中で紹介している自閉症・サヴァン症候群の画家、スティーブン・ウィルシャーです。彼は建物の細密画で知られますが、やはり細部から描き始めて全体へと広がっていき、それでもバランスは崩れないのだそうです。
スティーヴンは下書きをしたり、輪郭を取ったりはせず、心のなかに確固としたイメージがあってそれを再現しているかのように、紙のはしから(どこから始めても同じなのではないかという感じだった)、せっせと描いていった。(p284)
こうした輪郭をとらずに細部から全体へと広げる描き方は、自閉傾向を持つ芸術家にしばしばみられる特徴だと 芸術と脳 絵画と文学、時間と空間の脳科学 (阪大リーブル42) には書かれていました。
自閉症の認知特性は絵を描く順序にも影響を与える。
「家の絵を描いてください」と言われたら、どのような順番で描くだろうか。壁と屋根を描いてから、窓やドアを追加するのが標準的ではないか。
しかし、自閉症児の描く絵の順番は、部分から全体に向かう傾向があると報告されている。…やはり細部にまず注意が向いて、細部から描き始める、ということではないだろうか。(p263)
自閉傾向を持つ人のすべてが細部から描き始めるわけではないんでしょうが、近年の認知心理学の研究からすると、細部に注目する、というのは、自閉傾向の大きな要素であるようです。
顔を忘れるフツーの人、瞬時に覚える一流の人 – 「読顔術」で心を見抜く (中公新書ラクレ)によると、自閉傾向を持つ子どもは、乳幼児のころから、細部が見えすぎる視覚特性を持っていて、そのせいで人と目を合わせるのが難しく、全体より細部に注目する思考パターンが発達し、場の空気のような全体を読み取るのが難しくなるのではないか、とされていました。
天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル (こころライブラリー) の中では、不思議の国のアリスの作家ルイス・キャロルも、細部に注目しすぎる傾向があったアスペルガー症候群で、彼が描いた絵には、細部を描き込みすぎてバランスが悪くなっているのがみられると説明されていました。
けれども、優れた自閉症の画家は、さっきのスティーヴン・ウィルシャーのように、たとえ細部から描き始めても全体のバランスを整えられるとも言われます。このあたりの話は、前の記事を参照のこと。
瑛士くんは、こうした細部に注目する傾向を持っているようで、インタビューのなかでも、細部を描き込むことへの熱意を語っていました。
自分の絵は細かさが魅力というか、細かさがないとただの絵のような気がします。すごく細かく描いてみた時に、遠くから見て、「ここ、白が多い。薄い」と思って描き足して、ぜんぶ黒になったくらいで、「これくらい濃ければいいんじゃないかな」と思ったりします。
ごちゃっとしてて、色んなものが入っている絵が好きなので、線が少なくてシンプルなものだと見飽きてしまいます。(p11)
また、瑛士くんは、絵は細部まで描き込むのに、色についてはモノクロでも十分だと考えていたということも書いています。(p10)
これらは、どれも前にまとめたアスペルガーの絵の傾向のいくつかとよく似ているように思います。
作文が得意な言語能力の高さは、先ほどの天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル (こころライブラリー) のルイス・キャロルや天才が語る サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界 のダニエル・タメットと似ているかもしれません。
もっとも、この本の感想を書く上では、アスペルガー症候群がどうのこうのというのは的はずれな話かもしれません。ROCKETは、最初に引用したように、発達障害という安易なカテゴライズをするのではなく、能力の偏りを長所とみなすことを目的とした教育プロジェクトだからです。
それでも、瑛士くんの絵や文章に現れている認知特性が、ルイス・キャロルやダニエル・タメット、スティーヴン・ウィルシャーといった、名だたるアスペルガーやサヴァンの人たちと似ている、ということは、彼がまさに「発達障害」というカテゴライズを越えた、とてもユニークで才能ある人だと読み解く手がかりになるのではないでしょうか。
ちなみにわたしはというと、絵は輪郭から描きますし、細部を細かく描き込むのは苦手で、構成はシンプルなことが多いです。他方で色はいつの間にか派手に賑やかになっていってしまうので、このあたりの傾向は正反対ですね。わたしは残念ながら、ギフテッドでもサヴァンでもないようです。
自分を振り返って
最初にちょっと書いたように、この作品集を見たとは、ある面で瑛士くんはわたしの子ども時代によく似ていると感じました。わたしが12歳くらいのときも、彼と同じようなことをやっていました。
たとえば、わたしは11歳のときから小説を書いていて、小学校高学年~高校生のときに書いた小説群は、ここのサイトにもひっそりと載せています。瑛士くんが書いているようなSFファンタジーではなくて、推理小説と人間描写ばかりで、ジャンルも内容も全然違いますが、年齢不相応な文体などは似ているかなと。
また学校の教育に納得しないこともよく似ていますね。瑛士くんは、学校の先生に色々意見したことを書いていますが、わたしも理不尽だと思うことははっきり言っていました。感想文で運動会の練習やテスト前の定例行事は時間の無駄だとはっきり書いたり、テスト問題などで先生の側が間違っている部分があれば訂正してもらったり。おかげで、先生たちから身構えられていたことも…。
授業でわからないことがあったら、先生に聞きに行く子がたくさんいましたが、わたしはそんなことは一度もしなかった。先生が全面的に正しいなんて思ったことがなかったからです。一度 通信教育をやりましたが、採点者のレベルが低すぎてすぐにやめました。塾通いも一度もしませんでしたが、学校ではトップクラスでした。周りの子のほうが間違っていることが多いとわかっていたので、カンニングもしなかった。
わからないことは人に聞いても仕方ないので自分で調べる。それは今でも変わっていません。先生とか学者、医師など、肩書きを持っている人たちの意見なんて、ほとんど適当な知識のナマクラだと思っています。自分でいろんな本を読んで、自分で考える。そうやって初めて本当のことが見えてくる。いつもそう考えて生きてきました。
天才に憧れたけどなれなかった
こんなことを書いていると、まるで知的レベルの高いギフテッドみたいな感じですが、わたしは自分がギフテッドだとは思いません。
わたしは中学から高校生くらいのころ、「天才」というものに憧れた時期がありました。推理小説で言えば、天才型探偵、シャーロック・ホームズや、神津恭介などですね。名探偵コナンの工藤新一の影響もあったかもしれません。
わたしが小学校生活の終わりごろに考えだした推理小説の主人公は神津恭介がモデルでした。小学校で高木彬光の神津恭介シリーズを読んでいた、というあたりが今思えば異常ですが…(笑) だけど、神津恭介シリーズは、ちょっと猟奇的で気持ち悪いので、中学時代にもう少し、自分寄りの探偵として考えだしたのが、10代の少女の翠河 瑠香でした。
瑠香は長い黒髪を翻し、トレンチコートを羽織ってさっそうと歩く、容姿端麗、頭脳明晰、冷静沈着な少女。かといって、機械的だったり変人だったりするわけではなく、ちょっと常識にうといだけで優しい心の持ち主。親友である由梨菜と一緒に、天才的推理で難事件を解決していく。そんなキャラクターです。
なんだか、ややこしい人物名ばかり出てきてましたが…。
この瑠香は、はじめて自分を投影した、とても思い入れと愛着のあるキャラクターで、長い時を経て、今年になって新作を書いたくらい。今でも時間があれば物語をいくらでも書きたいと思っています。
瑠香は、わたしの憧れで、当時、天才に憧れていた わたしがそうありたいと思った人物像でした。
でも、わたしは天才にはなれなかった。そのあと進学校に行きましたが、わたしは頑張りつづけることができず、不登校になってしまいました。クラスにはギフテッドレベルの天才もいましたが、自分は彼らとは違う、ということを思い知らされました。やっぱり自分はダメ人間だと思いました。
でも、そもそも今になって思えば、本当の天才は、天才に憧れたり、天才になりたいなんて思ったりしないんじゃないでしょうか。
本物のギフテッドは、天才にあこがれたり気取ったり優越感を持ったりしないと思います。自分がそれそのものなのだから、自然体でいられるはず。
この瑛士くんの作品集を読んでいると、瑛士くんは、瑠香という存在を創りだしたわたしとは逆に、「頭がいいとか完璧な感じのキャラクターは感情移入ができない」と述べています。(p13)
ある意味、わたしが天才に憧れてしまうのは、自分には天才の素質としての何かが足りない、ということがわかっている劣等感の裏返しなのでしょう。わたしが瑠香というキャラクターを考えだしたのは、心理学でいうところの「補償」が働いていて、わたしに足りないものを補って「理想化」されたのではないかと思います。
一方で、瑛士くんは、「今までずっと普通になりたかった」とも言っています。これまた、普通ではなく特別になりたかったわたしとは正反対です。(p7)
つまり、普通の人間であるわたしは、頭脳明晰なギフテッドに憧れたのに対し、ギフテッドの瑛士くんは、どこか抜けた普通の人間に憧れていたということでしょう。
わたしがギフテッドに憧れて、ギフテッドを擬人化したかのような瑠香の物語を書いていたことそのものが、わたしがギフテッドではないことを物語っています。
今年、すごく久々に、瑠香の物語を書いていて気づいたのは、わたしは瑠香によく似ているけれど、わたしの本質は瑠香の親友の由梨菜のほうなのだということ。由梨菜は、天才的な親友に憧れながらも、優しくサポートする普通の女の子。わたしはいつだって、由梨菜の目を通して、瑠香を見ていたのです。
シャーロック・ホームズでいうところのワトソン博士、エルキュール・ポアロでいうところのヘイスティングズ大尉、そして神津恭介でいうところの松下研三。
つまり、天才のそばにいて、かけがえない相方や相談役になっているパートナーこそが、わたしの居るべき立ち位置だったのです。いまだに相棒になってくれる天才には出会えていないんですが…(笑)
子どものころから「人」に興味がありすぎた
ギフテッドの瑛士くんと、ギフテッドに憧れていた一般人のわたしには、ほかにも決定的な違いがありました。
たとえば、人に対する興味。瑛士くんは、友だちについてこう言っています。
友達がいると、関係性に悩むと思うんですけど、私は一切悩まなかった。友達はいらないと公言してきた。だから助かった。
友達関係とか、人間関係にあまり興味がなかったです。人が言うことにいちいち傷ついてたら“変な人”はやってられない(笑)。(p14)
わたしはそれとは正反対でした。ずっと友だちがたくさんいたし、人間関係に興味がありすぎて仕方なかった。わたしは人間が大好きであると同時に、人間がすごく怖くもある。好きでもあり怖くもあるなんて、矛盾してるみたいですが、そうではなくて、どちらも「興味がない」とは正反対。人にものすごく興味があるからこそ、人とのつながりを大事にしますし、逆に傷つけられたりもする。
わたしは推理小説を読んでいた影響もあってか、心理学にたいそう惹かれていました。推理小説の中でも、糸とかワイヤーとかコンピュータを駆使したような機械的なトリックじゃなくて、ディクスン・カーの「皇帝のかぎ煙草入れ」や「曲った蝶番」のような、心理トリックが大好きでした。心理的な錯覚や盲点を利用したトリックです。
そのせいか、中学校のころに、心理カウンセリング小説と言うべきジャンルを5作書いているんですよね。「人生の修繕人」シリーズといって、生き方に悩んだ人のところに謎の初老の人物が表れて、悩みを解きほぐしていくという。正直いって、人間心理の理解はまだ浅かったので、公開するには耐えませんが…(笑)
そして、中学校の卒業文集には、そのまま「人生の修繕人になりたい」なんてご大層な将来の夢を書いたものです。結局のところ、カウンセラーとか医者にはならなかったけど、今やっていることは、その延長線上にある気がします。人の心という不思議なものを読み解いて推理していくのが楽しくて仕方ないんですね。ある意味、ホームズの話を書いているワトソンや、神津恭介の話を書いている松下研三みたいなものです、
でも、その人間への興味のせいで、わたしは不登校になったのだとも思います。瑛士くんはいじめなどで居場所がなくなったと述べていますが、わたしの場合は、そこもまた正反対。わたしは一度もいじめられたことはありません。いじめられかけたことはありましたが、まわりを味方につけて、いじめっ子のほうを孤立させました。
でも、わたしは、人間性を無視した学校教育が肌に合いませんでした。ただ知識を覚えるだけの教育や、決められたとおりに答えるマルバツ主義など。国語の授業にしたって、作者が意図したかもわからない、どこぞやの評論家が考えだしたことを答えるよう求められる。そんな創造性のない教育が苦手でした。人間の世界は、もっと複雑で、ただひとつの「正解」に縛られたりしないものです。
そうした肌に合わない教育に、周りの目を気にしながら、無理して頑張って取り組んでいるうちに体調を壊して、わたしは不登校になりました。でも、学校そのものはすごく好きだったので、今でも学校生活で経験したことは良い思い出です。
わたしが「人」にすごく興味がある、というのは、絵の作風にも表れています。瑛士くんの作品には「人」が出てきませんが、その理由を彼はこう述べていました。
顔が描けないからです。変な顔の人とか、ふざけた人なら描けるけど、それ以外は出てこない。絵の題材として、人に興味がないです。(p13)
それに対して、わたしの絵は、必ず「人」が出てくる。オリジナル絵で人が出てこない絵なんて描いた記憶がないほど人が出てくる。
わたしは人が出てこない風景画にほとんど興味がありません。人が出てこない風景なんて、写真でいいじゃない?と思ってしまう。風景は人とセットになって初めて魅力的になる。そう思って、いつも絵を描いています。
瑛士くんは、人の表情を描くのが難しいと述べていますが、わたしは表情の描き分けで苦労したことはほとんどない気がします。人の顔を覚えるのは苦手ですが、表情から感情を読み取るのは得意なんでしょう。
共感しすぎるHSP
こうして考えると、瑛士くんは、とてもユニークな子だけど、わたしのほうも、どちらかという正反対のベクトルに突き抜けているようなところがあります。
こんなわたしは一体何者なんだー?? と随分長いこと悩んできました。やたらと人間心理に興味があって、人とのコミュニケーションや空気を読むことが妙に得意で、ときにはカメレオンのように人に合わせすぎてしまう。
子どものころは、自分は周りの子と違うところなんてまったくないと思っていました。どんな場にもそれなりに適応して溶け込めるから。でも、溶け込めることと、居心地がいいことは別です。
周りの子は、わたしほど人の心に興味がないし、繊細でもないし、細やかな気配りもできない。深く心を読み取ったり、わからないことを突き詰めて考えたりしようとしない。わたし一人が気を揉んでるみたいで、どうにも不思議でした。
発達障害という概念を知って調べていくうちに、ADHDの診断を受けて、薬もよく効きましたが、最近ひといちばい敏感な子 という本を読んで、自分がHSP(感受性が強すぎる人)という種類の人間だったと知りました。
HSPというのは、アスペルガーとは真逆の、人に対して興味がありすぎて、繊細で細やかで、感情移入しすぎてしまう人のことです。その本には、親から見たHSPの子の特徴についてこう書かれています。
HSCの親は、この感情反応と共感力の強さがどのようなものか、すでに目にしていると思います。
物事の一つひとつを深く感じ取り、涙もろく、人の心を読むことに長けていて、完璧主義で、ささいな間違いにも強く反応します。
学校の友達や家族、初めて会った人まで、他人のストレスによく気づきます。
時には動物の気持ちにも共感して、小さな子ヒツジがラム・チョップになるとか、ホッキョクグマの子どもが温暖化のためにおぼれて死んでしまうことを知って心を痛めます。(p430)
空気を読みづらいアスペルガーとは逆に、人の気持ちに敏感で、共感しすぎてしまう。それがHSPです。なんにでも共感しすぎてしまうせいで、人が大勢いる場所は疲れますし、いまだに肉料理を食べるのに抵抗があって、基本的には菜食主義だったりします。
わたしは天才以外のあらゆるものになれる
最後に、この本を読んでいて、気づいたことがあります。それは…
天才は天才にしかなれない。
でもわたしは天才以外のあらゆるものになれる。
ということ。
天才、ギフテッドと呼ばれる人たちは、天才にしかなれません。だから、一般人の中に入って、学校で教育を受けると、居場所がなくなったりいじめられたりする。レベルの低い一般人のなかに紛れ込むことはできないからです。
才能ある高機能自閉症のグニラ・ガーランドの本のタイトルにあるような、ずっと「普通」になりたかった。 という願いはそれをよく物語っています。普通になりたくてもなれない、特殊な才能に生まれついた人たち。
わたしはそうではなかった。わたしは天才に憧れたけどなれなかった。その代わり、わたしは天才以外のあらゆるものになれます。HSPの人は、空気を読む力、人に合わせて自分を変容させる力が飛び抜けて優れている。やろうと思えば、どんな人にでも、話題を合わせたり、共感したりすることができます。たとえ自分を押し殺してでも。
わたしはだいたいのことなら、そこそこのレベルまではやれます。芸術でも学問でも、なんでもやろうとすれば、一流にまではなれなくても、ある程度までなら熟達できる。わたしは能力の凸凹がありつつも、持ち前の適応力によってオールマイティーに振る舞うことができます。HSPにはあらゆることに興味を持つ「ジェネラリスト」と一つのことに特化する「スペシャリスト」がいるそうですが、わたしはジェネラリストですね。
自分を変容させる力が良いものになるか悪いものになるかは、持ち主次第です。力やエネルギーには、良いも悪いもありません。わたしはこの力をコントロールしていかなくちゃいけない。
わたしはいまだに周りの空気を読みすぎて、過剰に同調しがちです。場面ごとに別の人格になってしまう。際限なく形を変えて変容していってしまう。そうして周りに引きずられてしまう生き方のひずみが不登校の体調不良として出たわけなので、自分と人とを意識して区切ることはどうしても必要です。
でも、この同調力のおかげで、他の人の気持ちを深く汲み取る感性があって、友だちに共感して寄り添ったり、絵や文章をかいたりするときにすごく役立っている。そう思うと、悪いことばかりではありません。
もしわたしの子ども時代に、ギフテッド教育プロジェクトROCKETがあったとしたら、わたしはそこへ行こうと思ったでしょうか。
きっと眼中になかったことでしょう。わたしはギフテッドじゃないし、自分を特別な存在だと思ったこともない。特別な人間に囲まれて生きるより、多様な普通の人たちに囲まれて、彼らを観察しながら生きるほうが楽しい。(一人くらい天才の相棒はほしいけれど笑)
うっかりミスなどは多かったけど、小学校のうちに不適応を起こしたり、いじめられたりすることもなかったはず。たとえ天才にあこがれて応募したとしても、審査で弾かれたでしょうね(笑)
かえって、そんな特別な教育を受けたりしたら、今度はそこに過剰に同調しすぎて、自分を特別な人間だと思い込むようになったかもしれません。わたしの人格は、居場所によって劇的に変わってしまうので、変にプライドの高い、いけ好かない人間になっていたかもしれない。
わたしは、普通の学校に行って、不登校になったけれども、それを苦しみながら乗り越えてきた今の人生でよかったと思っています。特別な学歴も肩書も地位もないからこそ、わたしはわたしでいられるんじゃないかなと。
縛られるものが何もないから、誇れるものが何もないから、天才以外のあらゆるものに変容できる自分の柔軟性を活用して、気取らずに生きていけるのかなーと思います。
もちろん、わたしと違って、生まれながらに天才であるギフテッドの子たちには、ROCKETのような場が必要だと思います。天才は天才以外のものにはなれないのだから、彼らにふさわしい場で教育を受けられるのはすばらしいことでしょう。
わたしの知り合いにもアスペルガーの子がいますが、学校に適応できず、孤独で辛い思いをして、そのまま社会不適応になって、今では過去の学校生活を恨みながら生きています。特定の分野ではとても高い能力がある人なので、もしギフテッド教育が普及していたらどうだったろう…と思わずにはいられません。
瑛士くんをはじめ、ROCKETに参加している子たちが、これからのびのびと才能を開花させて活躍していくといいなーと思います。またいつか、彼らがどう成長したのか、その後の活躍に触れて、違った文化から学んでみたいなと期待しています。
▽瑛士くんのその後
ニュースで放送されていました。