創作する作家にとって、昔も今もスランプは大敵です。スランプに一度も陥ったことがないという幸せな作家もいますが、たいていは、描きたいのに描けない、創りたいのに創れないという悩ましい時期を経験したことがあるはずです。
わたしも過去記事で何度もスランプのことを話題にしてきました。描きたいのに思うように描けない時期は本当に辛いものです。
スランプは、これほど昔から知られている古典的な問題であるにもかかわらず、いまだに心理的な葛藤であるかのように扱われるのはどういうわけでしょうか。
ここ数十年の科学の進歩で、わたしたちは、たとえばうつや依存症が、気持ちの持ちようとか心の風邪などではなくて、れっきとした脳の不具合だということがわかるようになりました。
ではスランプはどうなのか。スランプだって作家にとっては一種のうつ状態みたいなものですし、ときには作家生命の破綻にもつながるほど由々しい不調です。それなのに、いつまでスランプに対するアドバイスは何世紀も昔のままなのか。
いつまでも抜け出せないスランプ、枯れた創造性、創作したいのにどうしても創作できない。
そんなとき、作家の脳ではどんなことが起こっているのか、どうやって抜け出すことができるのか、この記事では科学的な観点から分析してみたいと思います。
もくじ
創作のときには脳のどこが働くのか
わたしたちが創作するとき、またスランプになるとき、脳のどの部分が関係しているのでしょうか。
創作と脳の関係というと、あちこちで目にするのが、右脳を活性化させて創造的になろう、というアドバイスですが、前に書いたように、これは都市伝説とかゴシップのたぐいなので割愛します。右脳=創造的説は否定されていて、創作というのは右脳と左脳の共同作業であることがわかっています。
一昔前の脳科学だと、脳のこの部分はこの能力に、あの部分はあの能力に特化しているという分業体制みたいな考え方(「局在説」という)でしたが、実際には、どんな能力でも、脳の色々な場所がネットワークとして協力して働いていると言われています。
わかりやすく言えば、リアル世界の成り立ちと同じです。わたしたちが食べものを買いに行くのはスーパーやコンビニや八百屋ですが、そうしたお店は、単独で成り立っているわけではありません。お店が営業するためには、さまざまな食材を生み出す産地である畑や農場が必要ですし、そこから品物を運ぶ運送業者も必要です。広い範囲がネットワークで結ばれていて、どこかがダメになると全体に影響します。
またオーケストラの演奏に例えるのもいいかもしれません。オーケストラには、全体をまとめる指揮者や、トランペットやヴァイオリンなどそれぞれの楽器を専門とする団員がいます。でも、そうした人たち単独で音楽が奏でられるわけではなくて、やっぱり何人もの奏者や指揮者が協力しあって、創造的なメロディが生まれます。
わたしたちの脳でも、創造性だけに特化した専門領域は見つかっていません。創造性とはさまざまな部分が協力して奏でられるネットワークだからです。
けれども、ネットワークの中でも特に目立つ場所、今考えた食材を売るスーパーや、オーケストラの指揮者みたいなネットワークの中心地(ハブ)みたいな役割をもっている領域があります。
書きたがる脳 言語と創造性の科学 という本では、創造性にとって特に大事な役割を持っているのは、「前頭葉」と「側頭葉」だとされています。そして、前頭葉は作家の「才能」にあたり、側頭葉は作家の「動機」にあたるとされています。
「才能」の前頭葉
まず、「前頭葉」について考えてみましょう。
左脳と右脳のなかにはさまざまな葉があって、創造的な思考にそれぞれ貢献している。
構造的で柔軟な創造的思考に最も重要だと思われるのは前頭葉だ。判断力、あるいは才能と動機という組み合わせのうちの才能にあたる。(p99)
前頭葉とは、わたしたちの脳の前のほう、おでこや目の裏側あたりに位置している部分です。
ここは、他の動物に比べて人間では特に大きく、人間を人間たらしめている場所です。つまり、動物にはできない高度な活動をしたり、理性的な判断をしたりするときに活躍します。
人間特有の活動というと、たとえば目先のものに飛びつかず、計画性をもって行動できるのは前頭葉のおかげです。明日のライブに備えて今日は早く寝よう、といった判断は動物にはできません。
芸術もまた、動物には見られない人間特有の活動です。神経内科医の岩田誠さんは、人間という種は、「ホモ・サピエンス」(賢いヒト)というより、「ホモ ピクトル」(描くヒト)と言ってもいいのではないか、と述べていました。
絵を描くことをはじめ、小説や詩をかくこと、作曲することといった創作は、人間特有の高度な活動であり、当然のごとく、前頭葉が重要な役割を果たしています。
不幸にも病気や事故によって前頭葉が損なわれた人は、創作ができなくなります。というよりも、日常生活全般において創造性が低下し、難しいパズルを解くような柔軟な思考ができなくなり、意味もなく同じ行動を繰り返したりします。
さっきの引用部分のつづきにこう書かれていました。
この理論は、前頭葉が損なわれた人々はイニシアチブや洞察力が欠如することが多いという観察に基づいている。
この人たちは往々にして大変に頑固で、状況が変化してある反応が不適切になってもなおステレオタイプ的な反応をし続ける。(p99)
特に脳科学の世界で有名なのは、フィネアス・ゲージという不幸な作業員のエピソードです。
詳しくはウィキペディアの当該ページなどを見てもらえればと思いますが、この人は事故で前頭葉に大きな障害を負ってしまいました。奇跡的に命を取り留めはしましたが、衝動的で浅はかな行動が目立つようになり、人が変わったようになってしまいました。
また、最近になって、脳の活動を調べる技術が発達したことで、創造的な作業をしているときは前頭葉が活発になっていることを確かめられるようにもなりました。
創造的な活動をしている人の前頭葉をじかに観察した研究がある。
正常な被験者に陽電子放射断層撮影(PET)装置のなかで創造性のテストをやってもらう。これは放射性物質を使って脳の各部の活動を測定する装置だ。
テストで高い創造性を発揮した人々は前頭葉が活発に働いていたが、成績がよくなかった人は活動が低下していた。(p106)
そのようなわけで、わたしたちの脳の中で、創造性に関わっている第一にして最大の場所は、前頭葉だということができます。
創造的な作家たち、いつもクリエイティブな人たちは、前頭葉が生き生きと働いていて、まさに「ホモ・ピクトル」らしさを発揮しているのでしょう。
「動機」の側頭葉
前頭葉は、作家の「才能」にあたる部分でしたが、創造性にはもうひとつ大事なものがありました。それは「動機」であり、これを担っているのは側頭葉だと言われていました。
前頭葉はおでこの裏側にあるのに対し、側頭葉は、その名の通り側面、つまりこめかみのあたりにある部分です。
どんなに才能のある人でも、創作したいという強い意欲がなければ作家にはなれません。
世の中を見回せば、科学者や実業家にも、創造的・独創的な人たちは大勢います。でも、聡明だからといって、その人たちが創作に取り組むかといえばそうではありません。
世の中の創造的な人たちのうち、絵を描いたり、小説を書いたり、作曲したりする人はごくごくわずかです。創作したいという「動機」がないからです。
反対に、創造的な「才能」は限られているのに、創作したいという「動機」のほうは満ちあふれている人もいます。その極端な例は、やはり事故や病気で脳の活動が変化してしまった人に見られます。
あるタイプの前頭側頭型認知症の患者には劇的な特徴が見られる。発症すると芸術的な能力を獲得するのだ。
実はこの人々は側頭葉の損傷がとくに著しく、前頭葉は比較的無事なのである(したがって前頭側頭型認知症というよりは側頭型認知症というべきかもしれない)。(p100)
脳のある部分の機能が衰えてしまう認知症には、よく知られているアルツハイマー病のほかにもさまざまなタイプがありますが、そのうちのひとつがピック病とも呼ばれる、「前頭側頭型認知症」です。
これは名前どおり、前頭葉と側頭葉に障害が出るタイプの認知症ですが、ときどき側頭葉だけに障害が出る人もいて、その場合、いきなり芸術の才能が目覚めることがあります。
突然、芸術的才能が開花する、という言い方をしましたが、もっと正しく言えば、開花したのは才能ではなく「動機」です。
側頭葉の異常で芸術に目覚める人たちは、たぶん、もともと前頭葉に由来する「才能」のほうは人それぞれで、そこそこ持っている人もいたでしょう。でも、「動機」がないので、作家の道に進むことはありませんでした。
側頭型認知症になって始めて、「動機」の部分が活性化したので、今までやらなかったような芸術に取り組み始めるようになります。
残念ながら側頭型認知症は進行性なので、芸術の才能が開花するとしても一時的で、しばらくすると前頭葉の萎縮なども進んで、創造性が低下していくことが多いようです。
創作の動機を呼び覚ます側頭葉の異常として、側頭葉てんかんもまたよく知られています。こちらは、若いころから発症して、ときどき偉大な作家の活力の源になっていることがあります。
有名どころでは、ロシアの文豪ドストエフスキーや、オランダの画家ゴッホは、側頭葉てんかんの持ち主だったことが知られています。(この二人のような極端な例は「ゲシュウィンド症候群」とも呼ばれます)。
ゴッホがいかに創作の「動機」に満ちあふれていたか、この本にはこんな言葉が載せられていました。
ゴッホは他人どころか当人もびっくりするほどの情熱で絵を描いた。彼は最も多作な画家の一人で、ルネッサンス時代の画家が助手を使って工房で仕上げたよりも多くの絵を一人で創作している。
自ら撃った弾丸で命を落とした日でさえ、野原にイーゼルをもち出していた。いちばん盛んなときには36時間に一枚カンバスを完成させている。
彼はその制作意欲を知的あるいは美的なものというより、感情的な力だと述べている。
「ときどき、ぼくはほとんど自分の意志に反してスケッチしている。ぼくたちを引き回すのは感情、自然に対する真摯な思いではないのか……。
その感情はときにはあまりに激しく、自分でも気づかないうちに仕事をしている。ときおりその力はスピーチや手紙に綴る言葉のようにして連続して一体性をもって襲ってくるのだ」(p103)
創作の「動機」が尽きないのは幸せなことだと思われがちですが、そう感じるのは、創作に縁のない人だけかもしれません。
実際にはゴッホは、自分でもコントロールできず、夜昼創作を続けずにはいられない異常な情熱に苦しめられ、やがて命を絶ったほどでした。創作の「動機」がなければ作家にはなれませんが、「動機」がありすぎる状態は苦しみを伴います。
このとき側頭葉で何が起こっているのかというと、こう説明されていました。
したがって側頭型認知症でも側頭葉てんかんでも、側頭葉の活動は低下していることになる。
そうだとすれば側頭葉には気の毒だが、ここは創造的意欲の座と言うよりも創造的意欲を抑制する場所と言うほうが正確かもしれない。
実際には状況はもう少し複雑だろう。創造的活動の際には、側頭葉の活動の一部が低下し、一部が亢進しているかもしれない。
そう考えると、てんかんの治療のために側頭葉を手術で除去した人々が爆発的な創造力を示すわけではないことも説明がつく。
ここは慎重を期して、創造性は側頭葉の活動の変化とつながりがある、と言うにとどめたほうがよさそうだ。(p102)
側頭葉の活動が活発であればあるほど「動機」が沸き起こる、というわけではなく、その逆とも言い切れないようです。てんかんとはそもそも脳波異常のことなので、おそらくは側頭葉のバランスの不安定さが創作意欲をもたらすのでしょう。
認知症やてんかんを抱えた人だけでなく、ごく普通の作家たち、あなたやわたしの場合も、側頭葉は創作意欲に関係しているようです。
たとえば、経頭蓋磁気刺激法(TMS)というヘルメットで脳に磁気を当てると、脳の活動を強めたり弱めたりすることができ、側頭葉の「動機」も前頭葉の「才能」も、ある程度、意図的に引き出せるという研究があります。
TMSを側頭葉に当てた試験的な研究では、詩神の訪れという感覚を引き出した―この体験はたぶん才能より動機につながるものだろう。
べつの試験的な研究では、前頭葉にTMSを当てたら、数分のうちに被験者の絵を描く能力と数学的能力が増強されたという。(p107)
前頭葉への刺激が才能を強化したのに対し、側頭葉への刺激は、「詩神の訪れ」を引き起こしました。これは言い換えれば、アイデアが天から降ってくる現象のことで、作家たちはたいてい、これをきっかけに創作を始めるものです。
もちろん、作家たちはふだん、頭に磁気ヘルメットをかぶって創作しているわけではありません。というより活発に創作する人の場合、わざわざヘルメットをかぶって側頭葉に刺激を与えなくても、内側からの自前の刺激で、それと同じことが起こっています。
側頭葉は、別の言い方をすれば、脳の辺縁系と呼ばれる場所の一部です。詳しく説明するとややこしいので省きますが、辺縁系は、激しい感情の起伏や、気分の不安定さと関わる場所です。気分の上下が激しかったり、不安定だったり、感受性が強かったりする人は、辺縁系のバランスが不安定だと思われます。
具体的には、躁うつ傾向のある人、ADHDっぽいムラのある人、HSPみたいな感受性が強い人は、辺縁系や側頭葉のバランスが揺れ動きやすい人たちだと思います。
ずっと前の記事で見たように、作家には躁うつ、ADHD、HSPなどの傾向を持つ人が多いですが、それはつまり、側頭葉の「動機」が沸き起こりやすいので、芸術の世界に飛び込みやすいからでしょう。
とりわけ、創作し続けていないと落ち着かない人、創作していないと死んでしまうようなタイプの人は、ゴッホやドストエフスキーほどではないにしても、かなり側頭葉が不安定で、「動機」が過剰になっているのだと思います。
こういう書き方をすると、芸術家になるような人は気分が不安定で、ちょっと病的なのではないか、ということになってしまいそうですが、わたしはそうではないと思います。
確かにADHDの人は気分にムラがありますし、HSPの人は感受性が強くて感情が揺れ動きやすいですが、人間はもともと、ある程度感情の振れ幅があるのが普通です。
辺縁系が完全に安定している人というのは、あたかも揺らすことのできないブランコみたいなもので、なんの面白みもありません。感情が安定しきって起伏が乏しすぎるのは、感情が揺れ動きすぎるのと同じほど不自然です。
適度に揺れるブランコに乗っているのが一番楽しいように、人間も、ある程度感情の浮き沈みや不安定さがあって、自由に芸術を楽しめるくらいが理想的なのだと思います。
ハイパーグラフィアとライターズ・ブロック
ここまでのところで、創作に深く関係している脳の場所は、「前頭葉」と「側頭葉」の二つだとわかりました。
前頭葉は創作の「才能」にあたる部分であり、作家にかぎらず、柔軟な思考をしたり、創造性を発揮したりするときに不可欠です。
側頭葉は創作の「動機」にあたる部分であり、これなしではどんな創造的な人も作家にはなれません。
では創造性をもたらすのが、「前頭葉」と「側頭葉」なのであれば、創造性が枯れてしまう状態、つまりスランプのとき、脳はどうなってしまっているのでしょうか。
スランプとはいったい何なのか考えるために、まず便利な用語を二つ知っておいてください。それは、「ハイパーグラフィア」と「ライターズ・ブロック」です。
ハイパーグラフィアは、毎日毎日ひたすら書きすぎる状態のことで、ライターズ・ブロックは書きたいのに書けなく状態のことです。とっても両極端ですね。
これはどちらも文学の世界の用語ですが、もちろん、他のタイプの創作にも当てはまります。次々とアイデアが湧きすぎてノッている状態は「ハイパー」で、創作できなくなってスランプに陥っている状態が「ブロック」です。
きっと、何かのかたちで創作活動をしている人たちは、どちらの状態にもなったことがあると思います。ハイパーなときは徹夜して作品を創ってしまいますし、ブロックになると、何もアイデアが思いつきません。
ここまで考えたことに当てはめると、ハイパーなときは側頭葉がコントロールを失って「動機」があふれすぎていて、ブロックのときは前頭葉が働かなくなり、「才能」が使えなくなってしまっているのだとわかります。
そして、ここがミソなのですが、ハイパーとブロックは両極端の特徴を持っているとはいえ、正反対のものではありません。
言い換えれば、一人の作家が、ハイパーであると同時にブロックになることがあります。
ある意味ではライターズ・ブロックの対極にあるのがハイパーグラフィアだ。
しかし驚いたことにこの二つの脳の状態はまったく正反対というわけではなく、相互補完的で、だから一人の作家がハイパーグラフィアとライターズ・ブロックのあいだを揺り動くことが可能になる。
それどころか、ハイパーグラフィアで同時にライターズ・ブロックだという場合さえある。
小説の執筆を先延ばしにしているあいだに、ジョゼフ・コンラッドが友人に書いた熱っぽい手紙がその一例だ。(p110)
ハイパーであると同時にブロックでもある、という不思議な状態は、文章で書くとわかりにくいですが、きっと、創作をやっている人には馴染み深いものだと思います。
今の引用文の中でイギリスの小説家ジョセフ・コンラッドの例が引き合いに出されていますが、コンラッドはあるとき小説のアイデアがまったく浮かばず、ひどいブロック状態になりました。
しかし、その同じ時期に、自分がいかにブロックに苦しんでいるか、ということを長々とつらつら語った手紙を友だちに書き送っています。彼の手紙はまさにハイパーでした。
ジョセフ・コンラッドはそのとき、小説の執筆においてはブロック状態でしたが、手紙を書くのはハイパー状態で、両極端な状態が同居していたのです。
ここがスランプとは何かを科学的に解明する、とても重要なポイントです。
スランプに陥った人は、たいてい、自分の創造性が枯れてしまって、もう何もできない、と感じます。
けれど、よくよく観察してみれば、ブロックされているのは、特定の分野の創造性だけ、ということがとても多いのです。それは特に、今いちばんやりたいこと、いちばんやる必要のある分野の創造性です。
そして、それとは逆に、今あまりやらなくていいはずの分野の創造性のほうは、ぜんぜん枯れることもなくスムーズに流れていて、むしろハイパーすぎることさえあります。
つまり、スランプとは、創造性が枯渇した状態なのではなく、ある特定の分野の創造性が限定的にブロックされている状態ではないか、ということがわかります。
もしも、あらゆる場面で創造性が枯渇してしまって何も手につかなくなってしまうとしたら、それはスランプではなく、うつ状態です。まともな生活ができないので病院にかかる必要があるかもしれません。
でも、スランプの場合は、特定の分野の創造性だけが枯渇して、そのほかの生活はいつもどおり創造的に営むことができます。この限定的な性質こそ、スランプとは何かを知る手がかりです。
スランプは条件付け反応
どうして、スランプの場合、ある特定の分野でのみ創造性が働かなくなるのでしょうか。
このとき脳で起こっていることを考えてみましょう。
たとえばさっきのジョセフ・コンラッドの例を考えてみると、彼はふだんはちゃんと前頭葉の「才能」も側頭葉の「動機」も働いています。友だちに手紙を書くときも正常です。だから彼はうつ病ではありません。
しかし、自分の仕事である、小説を書こうという段になると、なぜか、その状況限定で、前頭葉の機能が低下し、創造性が働かなくなってしまいます。
この種の部分的な前頭葉の「ブロック」は、ライター以外の作家たちも経験しています。
ライターズ・ブロックとほかの分野のブロック―音楽家のブロック、彫刻家のブロック―とはどんな関係があるのだろう?
ライターズ・ブロックのほうが一般的なのか、それとも作家が関心をもつので文章のテーマになることが多いだけなのか? たぶん後者だろう。
注意深く見てみると、ほかの分野のブロックもたくさん例がある。
たとえば、ハンガリーの作曲家ジェルジ・クルタークは、ときおり訪れる「作曲の麻痺状態」について、端的に「生まれる時期を決めるのは子どもだ―母親ではない」と述べている。(p121)
作家が陥るブロックには、さまざまな程度があり、軽いブロックであれば、心配するほどのものではありません。それは今引用したジェルジ・クルタークの言葉のように、「生まれる時期を決めるのは子どもだ」ということを意味しているにすぎません。
たいていのブロックは、出産予定日のように自分ではコントロールできないだけで、そのうち思ってもみないときにアイデアが生まれてくるものです。
前の記事で書いたように、たとえアイデアが生まれてこないように思える時期でも、無駄に時間が過ぎているわけではありません。ちょうど生まれるその日まで徐々に成長し続けている赤ちゃんのように、見かけ上 何も進歩していないように見えても、無意識下でアイデアが錬成されている状態です。
けれども、何ヶ月も何年も続くブロックとなれば話は違います。プロの作家にとって、それほど長いライターズ・ブロックは作家生命に関わりますし、ひどい場合は、生活さえままならなくなるでしょう。あまりに長く生まれてこない赤ちゃんが、母子の命に関わるのと同じです。何か異常な問題が起こっているに違いありません。
この異常なブロックは、作家たちどころか、もっと広い範囲の職種で起こります。
有名なのが、ゴルファーが陥るイップスです。イップスは、プロのゴルファーを襲う恐ろしい現象で、ある日を境に、大舞台でプレーができなくなってしまいます。
普段の練習のときは問題なくスイングできるのに、本番に立つと、突然まともにプレーできなくなり、自分でもどうしようもなくなります。ベテランの有名選手でさえ、イップスを発症すると引退に追い込まれる人が少なくありません。
同じ現象は、プロ野球でも見られます。たとえば送球イップスに陥った選手は、大事な場面になると必ず暴投してしまいます。
俳優の場合も、やはり練習ではうまくできるのに舞台に立つと突然演技が崩壊するようになってしまい、引退に追い込まれることがあります。
熟練した音楽家も、本番で指がもつれて思いどおりに動かなくなる局所性ジストニアで演奏できなくなることがあります。
いずれの場合も共通しているのは、緊張の伴うプレーを繰り返す人たちが発症しやすいこと、ある場面限定で症状が起こること、そして、一度発症してしまうと、どれほど動機や意欲があっても、上手くいかなくなるということです。
今挙げた例はみな大舞台に立つ人たちでしたが、一人で黙々と作業する人でも、同じ問題を抱えることがあります。たとえば書痙(しょけい)がそうです。
書痙は、文字を書こうとすると手が荒ぶってしまって正確に書けなくなる病気です。現代ではほとんど見られませんが、まだコピー機や印刷機がなかった時代には、ごくありふれたものだったようです。
書痙とライターズ・ブロックは現実的な意味でも重要な類似点が多い。
書痙については、定型的な反復運動が障害を引き起こすことがだんだんとわかってきた。
とくに書痙が多かったのは、人間コピー機の役割をしていた19世紀の書記である。(p152)
コピー機がなかった時代、書記や写字生と呼ばれる仕事をする人たちは、一字一句間違わないよう慎重に書き写す作業が求められました。ちょっとでも間違うと価値がなくなるわけですから、ものすごい緊張のなか作業していたことは想像にかたくありません。
彼らもまた、ゴルファーや野球選手や音楽家と同様、緊張の伴う仕事を続けているうちに、書きたくても書けない状態になってしまいました。
なぜ、緊張の伴う動作を繰り返し続けていると、突然動作が崩壊してしまうようになるのか。原因は長らく謎めいていましたが、近年、それは定期的な反復運動で、脳が異常な運動を「学習」してしまうことにあるとわかってきました。
もっと簡単な言葉で言うと、これらはすべて、つまりライターズ・ブロックだけでなく、書痙やイップスもすべて、とても有名な「条件反射」と呼ばれる原理で起こっていたのです。
「条件反射」というと、みんな聞いたことのある、おなじみパブロフの犬のことです。
パブロフの犬は、ベルが鳴ったときにエサをもらう、という反復を繰り返したところ、ベルが鳴っただけでよだれを垂らすようになりました。
身近なところでは、飼い主の足音や車の音が聞こえると玄関に迎えに出て来るペットがいますが、これも学習された条件反射です。梅干しを見るとすっぱい顔になる人間も同様です。
条件反射というのは、まったく異なる、無関係の二つのこと、たとえばベルの音という刺激と、よだれを垂らすという反応が、何度も何度も同時に経験しているうちに、脳の中で結びついてしまう現象です。
もう少し脳科学的に言えば、ある動作を担当しているニューロン群と、別の動作を担当しているニューロン群が、繰り返し繰り返し同時に刺激されるうちに、やがて一緒に発火してしまうようになります。もともと分化していた別々の機能が融合してしまいます。どうせ同時に発火することが多い活動なら、ひとまとめにしてしまったほうが効率がいい、と脳が学習した結果 形成されるのが、条件付けです。
Aという動作のあと、Bという動作をする、というパターンを繰り返し繰り返し経験すると、そのうち脳が先回りして、「あっ、Aの動作が来た。それじゃ次はBだよね、わかってるよ」とおせっかいにも勝手にBを起動してくれるようになります。ルーティン化されるわけです。
これは、犬の話どころか、わたしたちの生活の中で、信じられないくらい頻繁に起こっています。わたしたちが無意識のうちに実行する習慣や、染み付いて抜けない癖のようなものは、ぜんぶ、この条件反射によって起こっているからです。
たとえば、あなたが今、この文章を読んでいるときの姿勢は、長年、無意識のうちに同じ動作を繰り返して学習されたものです。
プロの選手のイップスや、音楽家のジストニア、書記の書痙でも、これと同じ原理が働いてます。
こうした人たちは、緊張した状況でプレーするとき、しっかり自分の動作をコントロールしようと頑張ってきました。けれども、大舞台など、特に緊張感が高まる場面では、どうしても体の震えやちょっとしたミスが起こるものです。
そうした予期しない体の動きを反復経験すると、やがて無関係のはずの二つのことが脳の中で結びついて、条件反射が成立してしまいます。
大舞台に立つと手や足が予想外の動きをする、コンサートの場面になると手が震えて演奏できない、椅子に座って机に向かうとまともに字が書けなくなる。
これらはすべて、緊張した状況で手や足の震えなどをなんとか抑制してパフォーマンスを維持しようと頑張っているうちに、無意識の条件反射が身についてしまったことで起こっているのです。
そして、ここまで考えてくるともうわかりますが、作家が陥るブロックもまた、それと同じものです
ライターズ・ブロックも状況は同じで、作家がストレスを感じながら毎日デスクに向かっていると同様の問題が起こるのかもしれない。(p152)
ブロックに陥る作家というのは、たいてい、特に人からの評価に敏感な人たちです。つまり、作品を創作するとき、この作品はどう評価されるだろうか、という緊張感を強く感じやすい人たちです。
作家はたいてい一人で自室にこもって創作しますが、敏感な作家が経験する緊張感は、大舞台で衆目にさらされているスポーツ選手や、一字一句間違えずに書こうと意識する書記とよく似ています。
そうした強い緊張感の中で創作を続けるうち、たとえば創作するために椅子に座るといった特定の動作と結びついた条件反射が形成されてしまいます。
これが、特定の状況でだけ起こるブロックの正体です。
恐怖条件付けとしてのブロック
けれども、ここで比較しているスポーツ選手のイップスや、書記に生じる書痙は、作家が陥るブロックと少し違っているのではないでしょうか。
スポーツ選手のイップスや、音楽家のジストニア、書記の書痙はいずれも、緊張する場面で体の動きがコントロールできなくなってしまう条件反射です。
しかし作家が陥るブロックは、体の動きではなく、創造性がコントロールできなくなってしまいます。どうしてこんな違いが生じるのでしょうか。
この違いを考えるヒントになるのは、意外なことにPTSDと条件反射のつながりです。
PTSDというのは、最近よく聞くようになった、心的外傷後ストレス障害のことで、ひどい事件とか災害などを経験した人に起こります。
PTSDの症状はいろいろありますが、たとえば特定の場所に行ったり、特定のにおいを感じたりすると、突然パニックになり、行動をコントロールできなくなる、というものがあります。
たとえば、地下鉄サリン事件の被害者は、事件以降、地下鉄に近づけなくなった人もいます。事件を思い出させるような場所に行くとパニックになってしまうからです。
また東日本大震災の被害者も、テレビで津波を思わせるような映像を見たら、気分が悪くなったり、気が遠くなったりしてしまうかもしれません。
これは、程度の差こそあれ、スランプやイップスとよく似ていないでしょうか。いずれも、特定の場所や場面で限定的に症状が起こり、自分の意志で行動をコントロールできなくなってしまいます。
PTSDはもともと心の問題のように思われていましたが、近年では、刺激の条件付けによって起こる症状だということがわかっています。
事件や災害のときに感じた特定の刺激が、そのときの体の反応や感情と結びついてしまい、それ以降、条件反射として無意識のうちに勝手に起こるようになってしまうという、この種の条件反射は、特に「恐怖条件づけ 」と呼ばれています。
たとえば、マウスを使った実験では、ブザーの音を鳴らすと同時に電気ショックの痛みを繰り返し与えられると、ブザーの音を聞いただけで足がすくんで固まる反応が起こるようになります。
同じように、被災した人は、地震のときパニックになって逃げようとしたかもしれません。するとそれ以降、ちょっとした揺れでも、パニックになって逃げようとしてしまう恐怖条件付けが形成されます。
大舞台で演技をするスポーツ選手や、一字一句間違えられない書記は、緊張のあまり、手足の異常な震えを経験したかもしれません。そうすると、舞台に立ったり、デスクに座ったりするだけで手足の制御が利かなくなるイップスや書痙という恐怖条件付けが形成されます。
興味深いところでは、不眠症もまた条件付けで起こっていることが多いと言われています。ベッドに入っても寝つけない夜を繰り返すうちに、今日もまた寝られないかもしれないという不安感が、ベッドで横になるという行為と結びついてしまい、どれだけ寝ようとしても寝れなくなってしまうそうです。
また、家にいるときは元気なのに、学校に行こうとすると体調が悪くなる不登校の子どもや、遊びには行けるのに、会社に行こうとすると調子が悪くなる新型うつ病の人も、特定の場所と体の反応とが結びついてしまっている恐怖条件付けの一種です。
では、作家の場合はどうか。
作家たちはパニックになって逃げ出したり、手足が異常に震える、といった形の恐怖を経験することはまずないでしょう。
作家たちが経験するのは、自分の作品を発表し、だれかに見てもらったときに、きつく批判されたり、あるいは無視されたり、相手にされなかったりするときに感じる恥の気持ちではないでしょうか。
わたしたちはみんな、極度に恥を感じるとき、どんな症状があらわれるでしょうか?
きっと、頭が真っ白になって、何も考えられなくなり、喜びも楽しさも消え失せてしまい、何も手につかなくなってしまうのではないでしょうか。これはフリーズ(凍りつき)とか、ホワイトアウトと呼ばれる現象です。
このフリーズやホワイトアウトといった何も考えられない状態に陥るとき、脳で何が起こっているかというと、高度な活動を担当する前頭葉が停止しています。前頭葉がブロックされているので、何も考えられなくなるわけです。
では、こうした症状が、何度も繰り返すうちに創作活動そのものと結びついてしまうとどうなるでしょうか。
もうおわかりのとおり、創作しようと椅子に座っただけで、そのときの反応が条件反射として勝手に起こるようになってしまいます。
つまり、頭が真っ白になって、感情がなくなって、何も手につかなくなってしまいます。ふだんは前頭葉が働いている創造的な人が、いざ創作しようとすると前頭葉がブロックされてしまうようになります。
つまりスランプとは、過去に経験したフリーズ状態と、創作活動とが、恐怖条件付けによって結びついてしまった現象だったのです。
むろん、条件付けはほかの色々な理由でも生じえます。ここでは特に批判や評価に対するに恐怖条件付けが創作と結びついた場合を考えましたが、別の不快感が創作と結びついてしまうこともあります。
たとえば睡眠不足のまま無理やり創作を続けたり、ひどい騒音があるなど劣悪な環境で創作し続けたり、あまりにも使いにくいツールを使い続けたり、といった慢性的なストレスを感じやすい環境も、創作=苦痛の多いもの、という負の条件付けを形成しやすいので注意が必要です。
スランプを解消する脳科学的なアイデア
心理的な問題であるかのようにみなされてきたスランプが、じつは犬やマウスも経験するような生理的な問題だということがわかったところで、ここからは、いくつかの対策方法を考えてみましょう。
条件を変える
スランプに陥ったとき、気分転換をして、いつもと環境を変えてみればいい、というアドバイスをよく聞きます。気分転換なんて気休めにすぎない、と思ってしまうかもしれませんが、科学的に考えてみると、じつはそうではありません。
スランプとは、特定の刺激と、そのときの反応とが結びつくことで起こる、限定的な現象でした。スランプに陥っている最中だとなかなか気づきにくいものですが、創造性がブロックされるのは、ある特定の状況に限られています。
特に、恐怖条件付けが起こりやすいのは、これまで習慣にしていた創作スタイルです。ずっとストレスを感じながら作業していた部屋、椅子、画材などが、条件反射を引き起こすようになります。
とすると、気分転換するというのは、単なる気休めではなく、条件反射を引き起こすトリガーを遠ざける効果がある、ということがわかります。
イップスについて書かれた脳から見える心―臨床心理に生かす脳科学の中では、ゴルファーであり精神科医でもある田辺規充先生の本を参考にしつつ、イップスの対処法がこうまとめられていました。
すでに紹介した田辺氏の本には、イップス病についてのさまざまな治療手段が紹介されている。…一貫しているのは、これまでのやり方を何らかの形で変更する、という手法である。
すでに成立してしまったプログラムA→B→C(→E)→Dを変えることが大事なのだ。そのためにはA→B→C→Dという練習を「強靭なメンタル」で繰り返すわけにはいかない。(p84)
ここで言われているのは、A→B→C→Dという流れの動作をしたいとき、なぜか無関係の(→E)という困った動作が条件付けされてしまって、イップスに陥ってしまった人への対処法です。
これが条件付けであることからすれば、今までやってきたA→B→C→Dという練習を「強靭なメンタル」で繰り返すのは逆効果です。余計に条件付けが学習されてしまうだけだからです。スランプになった人も、今までと同じことをやっていると余計にスランプがひどくなっていきます。努力と根性では解決しません。
必要なのは、この条件付けされてしまったルーティンを手放して、「これまでのやり方を何らかの形で変更する」ことです。
条件付けとは、脳が先回りして、「あっ、Aの動作が来た。それじゃ次はBだよね、わかってるよ」とおせっかいにも勝手にBを起動してくれる現象でした。それなら、Aを変えてみればいいわけです。そうしたら脳は「あれっ、これは今までに経験したことのない新しい状況だぞ、学習したパターンは通用しないな」と判断するので、Bが引き起こされなくなります。
たとえば、家で作業しても集中できない人が、カフェに行くと集中できるのは、家の椅子やデスクと結びついた条件付け反応が、カフェの環境だと起こりにくいからです。
ゴルファーの場合は、今までとフォームの動作の順番を変えてみるといったことが対策になると言われています。イチローみたいなトップアスリートは、ルーティン化したお決まりの動作を決めて、毎回集中力が高まるよう条件付けしてますが、イップスではその逆が起こってしまっているので、ルーティンそのものを変える必要があるということです。
また、さっきのジョセフ・コンラッドのようにブロックされていない分野に集中するのもいいでしょう。彼の場合、小説の執筆がブロックされていても、手紙を書くことはブロックされていませんでした。
軽度のスランプであれば、今は別のことに集中する時間なのだとわりきって、違う創作をしているうちに、やがて恐怖条件付けが薄れて元の創作に復帰できる、という場合もあるでしょう。
創作を途中で投げ出さない
恐怖条件付けとしてのスランプを引き起こすのは、おもに作品を発表したときの批判や評価ですが、自分自身の行動が、恐怖条件付けを悪化させてしまうこともあります。
それは、以前取り上げた「シーシュポス条件」です。
詳しくは記事を見てもらえるとわかりますが、これは苦労して作り上げた作品がぞんざいに扱われたとき、意気消沈して気力がなくなってしまう現象のことをいいます。
作品をぞんざいに扱うのは、たいていは批判や評価を下す第三者ですが、ときに自分自身が作品をぞんざいに扱ってしまうこともあります。それは、作品を途中で投げ出して完成させずにほったらかすことです。
作品を途中で投げ出し続けた場合に起こる条件付けでは、今回もまた完成させられなかった、という落胆が創作に条件づけられます。
これはさっきちらっと触れた、条件づけ反応としての不眠症とよく似ています。ベッドに入っても寝られないことを繰り返すと、ベッド=寝られないものという条件づけが強化されていき、どうしても寝られなくなります。
同じように、作品に手を付けては完成させず投げ出すのを繰り返せば、創作=どうせ完成させられないもの、という条件づけが強化され、スランプに陥ります。
これを解消するにはどうすればいいのか。
不眠症の場合は、寝られない夜はベッドの中にとどまらず、いったん起きるように指導されるそうです。そうすることでベッド=寝られない場所という条件づけの形成を防ぎます。
創作の場合は、創作=完成させられないもの、という条件付けの形成を防げばいい、ということになります。つまり、いったん手をつけた作品はちゃんと最後まで責任をもって仕上げる、ということです。
それを繰り返せば逆の条件付けが強化され、どんなに難航する創作でも、最終的には絶対に仕上げられるという粘り強さが身につきます。
なぜか毎度毎度、創作を途中を投げ出してしまい、完成させられないことが続いている人がいれば、ある詩人が述べた次の言葉について考えてみてください。また書きたがる脳 言語と創造性の科学 からの引用です。
ある詩人は、自分の基準を引き下げればライターズ・ブロックなどなくなると言った。
それではすべての作家の判断基準を当人の能力にみあうまで引き下げさせるべきなのか? (p114)
作品を完成させず投げ出してしまうのは、自分の基準が高すぎるからでしょう。そこそこのできでは満足できず、自分の能力以上の作品を求めてしまっています。
けれども、前に書いたように、ピカソやゴッホといった偉大な作家たちでさえ、少数の傑作だけでなく、大量の駄作を描いていました。
ピカソやゴッホは、アイデアが微妙なときでも、作品を投げ出さず、ちゃんと完成させていました。それが駄作になろうとも、です。
作品を途中で投げ出してしまうことによる負の条件付けの形成を防ぐ方法は、次のようなアドバイスに従うことです。
しかしインスピレーションが湧こうと湧くまいと定期的に書き続けるというのは、いずれはインスピレーションが得られるかもしれないという意味では悪い方法ではない。飛行機は滑走路を走ってからでなくては離陸しない。(p128)
そうなるのは―ふつうは無意識のうちに―下手なものを書くよりは何も書かないほうがましだ、という信念があるあらだ。
実際にはG・K・チェスタートンが言ったように、「なすべき価値があることは、下手でもする価値がある」。(p131)
たとえ良いアイデアが出てこなくても、また満足のいく出来にならないとしても、地道に創作を続けていくことには十分な意味があります。
とにもかくにも作品を完成までこぎつけることは、どんな場面でも、作品=必ず完成させられるもの、という正の条件付けを強化するトレーニングであり、地道に作品を積み重ね続けることが、いずれ傑作を完成させるための土台づくりになるのです。
批判されるストレスを減らす
いくら条件反射のトリガーを遠ざけたり気分転換したりしても、また粘り強く作品を完成させ続けたとしても、創作活動にかかっているストレスそのものをなんとかしないかぎり、スランプはまた必ずやってきます。
家のデスクや椅子で集中できなくなった人が、カフェに行ったら集中して創作できるようになったとします。確かにその場所では、まだ恐怖条件付けが成立していないので、しばらくの間は集中できるでしょう。
しかし、作品を発表するたびに批判されるというストレスがなくなったわけではないので、カフェで創作するにしてもやっぱり緊張感のなか創作するはずです。すると時間が経てば、そこでも恐怖条件付けが形成されていきます。そのカフェでは集中できなくなり、別の場所を探すことになります。
ではカフェを転々として、環境を変え続ければ、スランプが来ても逃げ続けられるのでしょうか、そううまくはいきません。条件反射のトリガーは、汎化という現象によって、より一般的な刺激に置き換えられていきます。
わかりやすく言えば、何かのヘビに噛まれた人は、最初はそのヘビだけを怖がります。でもさまざまなヘビに噛まれる経験を繰り返したら、そのうち、どんな種類であってもヘビを見かけただけで、いえヘビに似た何かを見かけただけで、恐怖反応が起こるようになります。恐怖条件付けは、繰り返せば繰り返すほど範囲が広がっていって手に負えなくなります。
そのようなわけで、結局のところは、根本原因を断ち切るしかありません。作品を発表するときに味わうストレスを減らすということです。
もしアマチュアで創作しているのであれば、わたしが昔やったように、評価されたり批判されたりしにくい環境を整えることができます。
興味深いことに、この外部からの批判や評価によって創造性がブロックされる傾向は、男性より女性のほうが強いのだそうです。
二人の人間にプロジェクトを与え、一人には金銭を支払い、もう一人には払わないとすると、前者の創造性は報酬によって損なわれるらしい。
驚いたことに、少なくとも児童を対象にした実験では、この外部的な報酬がもつ抑制効果は男の子より女の子のほうが大きいという。
もしこれが事実なら、気の毒なことながら、多くの女流作家が生存中は基本的に無視され、この抑制効果が働かなくてすんだことを喜ぶべきなのかもしれない。
また男性作家は相対的に名声にも悪評にも悪影響を受けにくいことを喜ぶべきなのだろう。(p42)
こで書かれているのは、外部からのフィードバックは、たとえ「名声」のような良いものであっても、「悪評」のような悪いものであっても、それが創作行為と結びついてしまうと、創造性が妨げられることがあり、特に女性はその傾向が強いということです。
これは一般に女性のほうがPTSDになりやすい、というデータと一致しています。PTSDとは、さっき書いたとおり一種の条件付けです。
作家は、たいてい始めのうちは内なる動機(内的報酬)のために創作しているものですが、外からのフィードバック(報酬、名声、批判、評価など)が強くなると、それらが創作行為と結びついてしまうことがあります。
外からのフィードバックと創作行為が条件付けされると、作品を作るときに、無意識のうちに、「これは良い評価をもらえるだろうか、それとも批判されるだろうか」と身構えるようになってしまいます。女性は特にPTSDになりやすいので、外からのフィードバックが恐怖条件付けを生みやすく、創造性が抑制されやすいのでしょう。
「気の毒なことながら、多くの女流作家が生存中は基本的に無視され、この抑制効果が働かなくてすんだことを喜ぶべきなのかもしれない」と書かれているように、外からのフィードバックに敏感な人の場合は、あえて周りの反応をシャットダウンすることで創造性を守れる可能性があります。
外部の批判や評価をシャットダウンするのは、心の弱い人のすることだ、と言い出す豪胆な作家(特に男性的な作家)もいそうですが、おそらくこれは、性別などを含め、生まれつきの性質によるものです。女性にかぎらず、男性も、先に見たHSPのような繊細で敏感な人がいます。
そうした敏感な人の場合は、その繊細さこそが創造性の源なので、批判に打たれ強くなって鈍感になってしまえば、かえって創造性が損なわれてしまうかもしれません。みながみな、外からのフィードバックを意識したほうが創造的になれるわけではなく、自分の気質に合わせたテーラーメイドの対応が必要なのです。
好きなことを仕事にするべきか?
創作を仕事にしている場合、批判とはどうしても隣り合わせなので、批判や評価をされない安全な環境を整える、というのは難しいかもしれません。
その場合、意識するといいのは、同じ創作であっても、得意なことを仕事にして、好きなことは趣味にする、という住み分けです。
どういうことか説明するのに、詩人のコールリッジの例はわかりやすいでしょう。
たとえばコールリッジは丹念に―ハイパーグラフィアではないかと思うほどに―日記や手紙を書き、また形而上学的な評論もものしている。
しかし詩を書こうとすると「まったく違った獲物を狩り出してしまう―音楽の翼をもつ詩的なヤマウズラを追い求めているのに―飛び出してくるのは形而上学的な雁で、のろのろと動きが遅く、不毛の荒野を低くかすめて飛ぶばかりだ」と言っている。
コールリッジにとって、なぜ詩は形而上学的な論考や日記と違っていたのだろう?
決定的なのは、彼が自分を詩人であってジャーナリストではないと考えていたことだ。彼にとっては詩作が最も重要で、それに精魂を込めていた。
つまり、自分にとっていちばん大切なことがいちばん難しかったわけだ。(p115)
コールリッジの場合、好きなことは詩で、得意なことはジャーナリズムでした。もし得意なことであるジャーナリストを本職にしていれば彼は悩まずにすんだはずですが、好きなことである詩を本職にしたかったがために彼は苦悩しました。
好きなことを仕事にするのが勧められないのは、「自分にとっていちばん大切なことがいちばん難しい」からです。
好きなこと、というのは、自分にとってとても思い入れのある大切なことです。わたしにとっては絵がそうです。どんな絵を描きたいか、という強いこだわりがありますし、こだわりがあるぶん、人からの批判にもすごく敏感です。
思い出してほしいのは、作家の場合、恐怖条件付けは、作品を発表したときの批判や評価によって感じる恥が結びついてしまうということです。
自分の好きなものを創作して、それを世の中に送り出したとき、思い入れが強ければ強いほど、批判に敏感になってしまうのは容易に想像できます。
好きなことを仕事にしてしまったときに問題となるのは、まわりの批判の強さではなく、自分の側の基準の高さです。思い入れがありすぎるので、ちょっとした批判に対しても過敏に反応して、ふだんの何倍も傷ついてしまいがちです。
思い入れや愛着が強ければ強いほど、それが受け入れられなかったり批判されたりするときのショックは大きく、PTSDにも近い恐怖条件付けが形成されやすくなります。
その結果、創作をしようとするたびに思考のフリーズやすくみ反応が起こるようになってしまい、好きだったはずの創作ができなくなるとしたら、それほど不幸なことはありません。
他方、自分の好きなことではなく、得意なことを仕事にしていると、あまりそんなことは起こりません。
わたしの場合、文章を書くのは、好きなことではなく得意なことです。文章を書くことに思い入れはほとんどないので、批判されても、絵の場合ほどのダメージはありません。かえって、絵の創作が逃げ場所になってくれます。
絵の場合は、こだわりが強いので、どうしても見る人の好みより自分のエゴを優先してしまいますが、文章の場合は、わりとすんなり相手の好みに合わせられます。結果として、批判されることも少なくなるので、ストレスを感じません。
さらに、必ずしも、好きなこと=得意なことではない、という点も忘れるわけにはいきません。悲しいかな、好きだからといって上手いとは限らないのです。
好きではあるけれど世の中の基準から見れば上手ではない創作と、別に好きではないけれど世の中の基準から見て上手な仕事であれば、どちらが世の中に受け入れられやすく、批判されにくいかは一目瞭然です。
それで、得意なことを仕事にして、好きなことは趣味として楽しむ、という住み分けはとても合理的です。
そうしているうちに、やがて好きなことのレベルが上達したり、批判に対する耐性が身についたりして、好きなことでもある程度仕事にできるようになるかもしれません。急がば回れです。
このあたりの話は、こちらの記事に詳しく書きました。
セルフモニタリングを身につける
さっき考えたように、作家の陥るスランプは、スポーツ選手の陥るイップスや、音楽家の局所性ジストニア、そしてPTSDとも構造が似ています。これらはすべて、もともと関係ないはずの刺激と反応が、条件付けによって結びついてしまうことで起こっていました。
構造が似ているということはつまり、治療の仕方も似ているということになります。作家のスランプを治療するには、スポーツ選手のイップスやPTSD患者に効果のあるものを試してみればいいということになります。
このうち、特に役立ちそうなのは、セルフモニタリングの技術です。たとえば、音楽家の界隈で有名な「アレクサンダー・テクニーク」があります。
アレクサンダー・テクニークは、19世紀の俳優F・マサイアス・アレクサンダーによって作られました。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、そのいきさつが説明されていました。
オーストラリア生まれでシェークスピア俳優だったアレクサンダーは、…ある日ハムレットを演じている際、声が出なくなってしまったのだ。
彼はオーストラリアで最も優秀な医者に助けを求めた。しかし良くなることはなく、がっかりした彼は、イギリスで最も評判のいい医師たちのところに駆け込んだ。
しかし回復することはなく、俳優業が唯一の職業であったアレクサンダーは、深く絶望し帰国した。
その後…数多くの観察を経て、声が出るときと出ないときとでは、関連する姿勢が異なるという驚くべき発見をした。
…アレクサンダーはこの観察的アプローチをほぼ9年間かけて追求した。(p398)
アレクサンダーは、この徹底的な観察(モニタリング)を通して、どうやら自分の声の問題は、習慣的な姿勢と条件付けられた反応ではないか、と気付き、意識的に姿勢を修正し、筋肉の緊張を解くという手法を「アレクサンダー・テクニーク」として体系化しました。そして、自分と同じような問題に陥った俳優や音楽家たちをサポートし始めました。
素晴らしいバイオリニスト、ユーディ・メニューインも彼の生徒の一人だった。ポール・マッカトニーやスティング、ポール・ニューマンなど、数多くのポップスターや俳優がアレクサンダー・テクニークの教師の治療を受け、それを絶賛している。
しかしながら、今日に至ってもこの方法があまり知られていないままであるのは、厳しく洗練された集中(focus)が必要とされているからだ。(p398)
こうして作られたアレクサンダー・テクニークは、無意識のうちに自動的に行なってしまっている身体の動きに、意識的に注意を向ける(focus)することで心身を整える、「ボディーワーク」と呼ばれる分野のセラピーに大きな影響を与えました。
長らく医学の主流派からは、科学的根拠に欠けるとみなされていましたが、音楽家や俳優のような芸術家たちの世界では、ずっと重宝されてきました。近年では、さまざまな科学的な裏づけが得られ、研究者からも再評価されつつあります。スランプの脳科学にしても、その治療法についても、芸術家たちが直感で気づいていたことに、ようやく科学が追いついてきた、といえるのかもしれません。
フローを意識する
スランプとは、創造性の流れがブロックされた状態ですが、その逆に、創造性がスムーズによどみなく流れる状態は、心理学者ミハイ・チクセントミハイによって「フロー」と名付けられています。
たとえばほとんどの報告によれば、詩神に書けと強要される体験は心地よいもので、それが自発的なものでないだけによけいに快感だという。
自分の意志でなく詩神に駆り立てられて書くと、無意識の仕事がもつ流れ、あるいはチクセントミハイの言うフローの状態が生まれるためかもしれない。(p322)
創作に没頭して時間の流れを忘れてしまう、スポーツで集中しきって相手の動きがスローモーションで見える(ゾーン)、といった体験は、脳がフローの状態に入ってブロックされていないときに起こります。
フローに入っているときの特徴は、ここに書かれているように、自分の意志で頑張っているのではなく、自動的に流れる、ということにあります。
ブロックに陥っているときは、一から十まで手動で作品を組み立てなければならないような感覚に陥りますが、フローに入っているときの作品は、人手によらず勝手に組み立てられていくかのようです。それでいて、無理やり突き動かされているような感覚はなく、自分の意志でコントロールしている、という感覚があります。
これはつまり、前頭葉のトップダウン思考(意識的に考えて創作する)と、側頭葉のボトムアップ思考(無意識の動機に促される)の最適なバランスが保たれているということでしょう。
チクセントミハイは、ランダムなタイミングで鳴るポケットベルを使って、その時何をしているか、どれくらい集中していて楽しいか、リアルタイムで報告してもらう方法を使って、どんな活動のときに特にフローが起こりやすいかを調べました。
チクセントミハイの研究については、いろいろな本に出てきますし、ネットを調べればすぐ見つかるので簡単に書きますが、フローが起こりやすいのは、たとえばこんな場合でした。
目標が小刻みに定められていて はっきりしている、すぐに建設的なフィードバックが返ってくる、失敗や批判の恐れがない、自分の能力相応の課題に取り組んでいる、受動的ではなく能動的に参加している。
これらの特徴はどれも、ここまで考えてきたこととよく似ています。
たとえば、必ず完成させる習慣を持つこと、批判のない安全な環境を整えること、能力不相応なことを仕事にせず、得意なことを仕事に、好きなことは趣味にしておくこと、スランプの最中でも自分からできることを探したり、環境を変えたりすることなどは、創造力の自然なフローを取り戻すのに役立つ方法なのです。
フローらついては別の記事でも書きました。
スランプに陥るのは創造的だから
この記事では、スランプとはいったい何なのか、そのとき脳では何が起こっていて、どうすれば抜け出すことができるとのか、ということを考えてきました。
スランプとはパブロフの犬に代表的な条件付け反応の一種であり、環境を変えたり、セルフモニタリングしたりして、条件付けを解除することができれば、創造力の自然なフローを取り戻すことができます。
けれども、最後にもうひとつだけ考えておきたいことがあります。スランプとは、創造力が枯れてなくなってしまった状態なのでしょうか。
スランプに陥ると、あたかも創造性が枯れて、二度と創作できないかのように感じます。創作のインスピレーションから見放され、何もかも失ったかのように絶望してしまうかもしれません。
けれども、ここに大きな錯覚があるようです。
もう一度、創造性における脳の役割について振り返ってみましょう。一番大切な場所はどこだったでしょうか。そう、前頭葉です。ここは人間らしい高度で創造的な思考をつかさどる場所でした。
前頭葉は、創作の「才能」にあたる部分でした。PET装置をつかった実験では、創造的な人は前頭葉が活発に働いていて、創造的でない人は前頭葉があまり活性化していませんでした。
そうすると、創造的な人がスランプに陥った際、前頭葉の働きが一般の人並みに低下してしまって、才能が消え失せてしまっているのではないか、ということになりますが、ここがどうも違うようです。
創造的な人がスランプに陥るとき、前頭葉の働きは弱くなるのではなく、その反対、強くなりすぎて、いわば電気のブレーカーが落ちたような状態になっていると考えられます。
創造的な人がスランプに陥るきっかけの一つは、まわりからの評価に敏感になりすぎて、感情が高ぶりすぎて思考がフリーズしたり、固まったりしてしまうことでした。
このとき引き金になっているのは、強い自意識や恥という感情ですが、この恥という感情もまた人間特有のものです。
面白いことに、意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス) という本によると、あのチャールズ・ダーウィンは、こんなことを言っていたそうです。
1872年に発表した著書『人及び動物の表情について』でチャールズ・ダーウィンは、ヒトに固有と思われる感情的な表現は一つしかないと述べる。
「赤面はあらゆる表情のなかでもっとも人間的である」というのだ。(p149)
恥という感情は人間特有であるゆえに、批判や評価に敏感になるあまり感情が高ぶりすぎると、それを制御している前頭葉に過負荷がかかります。
その結果、前頭葉の処理能力が限界を越えて、ブレーカーが落ちて麻痺してしまい、機能停止した状態が、何も考えられないフリーズ状態なわけです。
たとえブレーカーが落ちたとしても、復旧させれば元に戻るように、創造的な作家がスランプに陥ったとしても適切に対処すれば元に戻ります。
創造性は一時的にブロックされたにすぎず、取り去られてなくなってしまったわけではありません。スランプになった作家は、創造的でない人たちと同じようになってしまうわけではなく、そもそも頭の中で起こっていることからして違うのです。
スランプに陥るというのは、ある意味、創造的な才能がある証です。
創作の能力のうち、「才能」にあたるのは前頭葉で、「動機」にあたるのは側頭葉でした。側頭葉の「動機」が沸き起こる人はみな熱心に創作しますが、スランプに陥るのは、「動機」だけでなく「才能」もある人だけです。
側頭葉由来の「動機」はあっても、残念ながら前頭葉の「才能」には欠けているタイプのハイパーグラフィアの人はスランプにはなりません。そうした人は、たとえば、毎日毎日、延々と、だれも読む気にならないような文章を書き続けるかもしれません。前頭側頭型認知症のような、側頭葉の異常でいきなり熱心に創作し始める人もまたそうです。
側頭葉の「動機」だけでなく、前頭葉の「才能」も持っているタイプの作家はそうはいきません。前頭葉の働きが強い人は、自分の作品を客観的な目で評価し、より良いものへと組み立てていくことができます。
けれども同時にそれは、自分の作品に求めるハードルが高くなってしまうということでもあり、第三者からの批判や評価に敏感になってしまいます。
こんな出来では恥ずかしいと感じる恥への敏感さと、より良いものを求める創作の基準の高さは、どちらも前頭葉の高度な機能から生じています。それはつまり、「周りからどう見られるか」を意識する能力(メンタライジングと呼ばれる)です。
動物は、「周りからどう見られるか」を意識しません。だから赤面もしません。動物には、人間だけが持つ、他者の視点を想像するために発達した高度な前頭葉の機能がないからです。
しかし、創造的な作家は、人一倍このメンタライジング能力が高いので、「周りからどう見られるか」を意識して作品の質を向上させられます。しかし同時に、「周りからどう見られるか」を気にしすぎるあまり、前頭葉に過負荷がかかって、ときどきブレーカーが落ちます。
才能とスランプは、じつは表裏一体なのです。自分の作品の質に敏感でなければ、創造的な作家にはなれませんし、同時にスランプにもなれないのです。
スランプは、ゴルファーや他のスポーツ選手、さらには多種多様な職種の人が陥るイップスと似ていると書きましたが、イップスに陥るのは初心者ではなく、百戦錬磨の上級者やベテランなのだそうです。スランプやイップスは、もともと ある程度才能のある人たちだけがかかりうる病です。
むろん、創造的な作家にはスランプが付き物だと言っているわけではありません。自己管理に長けた創造的な作家には、セルフモニタリングする技術に長けていて、スランプになりかねない状況をうまく避けている人も大勢います。
スランプには創造性が不可欠ですが、創造性にはスランプが不可欠という逆の命題は成り立ちません。あのSF作家のアイザック・アシモフは生涯477冊の本を書きましたが、一度もスランプにならなかったのだとか。
それでも、スランプになるのは、少なくともある程度の創造的な才能を持っている証であり、たとえスランプになったとしても創造性は失われず、一時的にブロックされているにすぎない、という見方をもっておくと、暗い森の中をさまよっているような時期でも、いくらか希望が持てるかもしれません。
この記事を書いているわたしはというと、セルフモニタリングがあまり得意でなく、気づいたらよくスランプの泥沼にはまっています。特に、大好きなことであるはずの絵のほうが低空飛行になりやすいのは、さっき考えた「自分にとっていちばん大切なことがいちばん難しい」ということからすれば、さもありなんです。
絵についての考察のカテゴリでは、ずっとスランプにまつわる色々なテーマを考えてきましたが、今回、科学的にスランプを考察してみると、それらがすべて―たとえばシーシュポス条件の話とか、安全な環境を整えるといった話まで、全部つながってくることに自分でもびっくりしました。
原理がわかったところで、首尾よく対処できるかどうかは全く別の問題なわけですが、こうやって色々考えてみるのは楽しいものです。
ときどき創造性が枯れ果てて、もう昔みたいな絵は描けないんじゃないかという不安がよぎることがありますが、スランプとは、ただ創造性のフローが「ブロック」されているにすぎない、という考え方を知れたのは、わたしにとっても収穫でした。
経験則からしても、創造性には波があって、スランプになっても辛抱強く続けてさえいればまたビッグウェーブがやってくるという経験を何度か味わっているので、焦らずじっくり創作活動を楽しんでいきたいなと思います。
それにしても…! なんか妙に書くのに時間かかったなと思ったら、記事長すぎですね! これでもはしょったんですが…(笑)
今回読んだ、書きたがる脳 言語と創造性の科学 に、わたしの大好きな作家オリヴァー・サックスのこんなエピソードが出てたのを思い出しましたよ。
ライターズ・ブロックが失書とはあまり関係がないというもう一つの根拠は、質は落ちるにしても以前より執筆量が増えるというライターズ・ブロックがあることだ。
オリヴァー・サックスは「タングステンおじさん」を書いているとき、10万語の本を書くのに200万語を書いては消したという苦しい体験を語っている。
この種の「執筆量の多いライターズ・ブロック」には、執筆量が減るライターズ・ブロックとはべつの対応が必要だろう。(p115)
どうやら、わたしの書きすぎる問題は、今回考えたライターズ・ブロックとはまたちょっと違うもののようです、最後の最後に、また新しい謎が出てきてしまいました。創作とは本当に奥が深い謎多きものですね…。