スーパームーンの満月の夜、スノーシューで雪原を歩いた

今年は1/21、2/19、3/21とスーパームーンの満月を見れるチャンスがあるそうですが、ちょうど地元でイベントが開催されたので、スノーシューで雪山に登って満月を見てきました。

北海道に引っ越してきたのはいいけれどウィンタースポーツの経験はほぼ皆無。せっかくのスキー場は楽しめていません。

そんななか、挑戦してみたいな、と感じていたのがスノーシューでした。

真冬の道北に住んでいると、積雪が1m以上になるので、初冬までは楽しめていた近所の公園に出入りできなくなります。

氷点下-10℃以下、しかも内陸部で水分がないさらっさらのパウダースノーなので、たくさん積もっても、固まらず、足場になりません。足を踏み入れようものならズボッと沈んでしまいます。雪だるまを作れない砂のような雪です。

冬場に雪の中を歩くと、砂漠を歩いているような感覚です。砂と雪はとてもよく似ている。どちらも水を含むと固まって重くなるけど、乾燥してるとサラサラ。

雪でスキーやスノボをするように、じつは砂丘でもサンドスキー、サンドボードができるらしい。降りたての雪の白い砂漠はとても美しいけど、家のすぐそばでも足をとられて遭難しそうになったり。

だから冬にはお気に入りの散歩コースが楽しめなくなってしまう。でもスノーシューを履いていれば、降り積もった柔らかい雪の上でも歩けるのだろうか? そんな疑問を抱いて、スノーシューでスーパームーンを見に行くイベントに参加してみました。

はじめてのスノーシュー

イベントの夜は、-7℃か-8℃くらい。数字だけ見ると寒そうですが、こちらではかなり温かい気温です。今年は暖冬で降雪も少ないので、1月でもこれくらいの気温の日がよくあります。例年なら、-20℃超えもざらなのに! と地元の人たちは言います。

集合地点に到着すると、イベントに参加する人はぜんぶで十数名。地元の人もいれば、東京方面からはるばる来ている人もいました。

さっそくスノーシューの履き方を教えてもらいますが、雪の上で、重装備の服装でスノーシューを足に取り付けるのは、はじめはなかなか骨が折れる。慣れると簡単なんでしょうけど。

寒くても手袋をはずして、かがんで作業しないと、細かいところがうまくいきません。歩いている途中ではずれてしまう人も続出したので、最初にしっかりと靴に取り付けておくのが大事。

スノーシューを履いたら、次に歩き方を教わります。スノーシューはいわゆる「かんじき」であり、接地面積を広くすることで沈まないようにしているので、ちゃんと真上から雪を踏みしめなければなりません。

すり足のようにしてずりずり歩いてしまうと、スノーシューの上に雪がかぶさってしまって意味がない。一歩一歩、ひざを高く上げることが大切です。

また、後ろ向きに歩くとスノーシューのへりが雪に引っかかって転んでしまうので、後退したいときは、スキーと同じように、まずくるりと方向転換して、それから歩き出すよう教わりました。いつでも前向きに歩く必要があるということ。

はじめてのスノーシューは、意外と軽いだけでなく、とても歩きやすく感じました。何より楽しい。これからの探検にわくわくします。

スノーシューで雪山へ

残念ながら、この日の天気は曇り空、ちょっと吹雪いていてまったく月も星も見えません。天気予報でも、このあとはずっと雪マーク。

でも、いよいよスノーシューを装備してムーンウォークに出発! というころになって、うっすらと月明かりが差してきました。天気が変わりやすいのが冬の山。吹雪いているような日でも、思いがけず晴れて星空が広がることがあります。

期待を胸に出発すると、インストラクターの人が案内する先は、いきなり山道! どんなイベントかあまり調べていなくて、てっきり雪野原を歩くのかと思っていたら、いきなり雪山へ登山でした。

もともと雪山に登るということに憧れがあって、昔から、そんなゲームをプレイすることは大好き。最近も雪山に挑戦するCelesteというゲームを繰り返し遊んでいたところ。

だけど実体験として雪山に登ってみたことはない。だから、この日が、わたしの雪山初体験です。いや、登山といっても、ちょっとした裏山に登ってみるレベルなので、本当に初歩の初歩なんですけどね。それでもその初歩さえもがハードルが高いのが冬の雪山です。

草木が生い茂る、ひとけも明かりもない夜の雪山に、順番に列を作って登っていきます。できるだけ自然の明かりで登山しようということで、懐中電灯なども使わずに。

いつもなら、深々と沈んでしまって到底歩けないような雪の上も、スノーシューならずかずかと入っていくことができます。ふつうに雪の中を歩くより、体力の消費が1/5くらいになるんですって。

けれども、思っていたよりは沈んでしまう。忍者の水蜘蛛みたいに、もっと浮くのかとイメージしていたけど、ふくらはぎあたりまでは、普通にズボッといきます。

おかげで困ったのが、歩きやすい短いブーツを履いてきてしまったこと。これは大失敗でした。歩きにくくても、膝丈くらいあるブーツか長靴を履いていくべきだった。

氷点下なんてめったに経験したことのない本州生まれのわたしが、この冬、日本でも随一の極寒地に引っ越してきて、最高気温が氷点下、最低気温は-20℃という気温の中、毎日外で自転車を乗り回せるのは、間違いなく防寒具のおかげです。

人間は防護服を着ることで、宇宙にも深海にも火山地帯にだって行ける。それと同じように、たとえ極寒の地方でも、しっかり専用の服装をすれば寒くありません。こちらに来てから、-30℃対応の上着を買いましたが、それを羽織れば、中は薄着でもまったく問題ないくらいです。

この日も、スタッフの方が、-50℃の冷凍庫内作業用の手袋を貸し出したりしていました。極寒地=冷凍庫内での作業、なんですよね。

装備をしっかり整えれば寒くないというのは、裏を返せば、装備が貧弱だととても危険だということ。この日はフェイスマスクにマフラーにリストウォーマーにスキーウェア…とさまざまな防寒具を装備して臨みましたが、唯一、ブーツの丈だけが欠けていました。

ふだん雪道を歩いていると思い知らされることですが、雪道でいちばんまずいのは、積雪の高さよりもブーツが短いせいで、踏み込んだときにブーツの口から雪が入ってきてしまうことです。

いったんブーツの中に雪の塊が入ってくると、カイロの真逆の氷を靴の中に入れているようなものなので、足がギンギンに冷えてしまいます。ほっとくと凍傷になりそうなくらい冷たい。

この日はスノーシューなら雪の上に浮くから大丈夫だろう、なんて勝手なイメージがあったせいで、歩きやすさ重視で短めのブーツを履いてきてしまっていました。おかげで、スキーウェアを着ているにもかかわらず、雪がブーツの中に入ってきてしまい散々な目に。

とても楽しいムーンウォークだったのに、足の冷たさだけが、ずっと辛かった。ブーツから雪をかき出しながら、できるだけ雪が入らないよう、他の人が踏んだ場所を歩くよう心がけたり、運動しているうちに体が温まったりしたおかげで、最後まで踏破することはできましたが。

経験不足からの失敗なので、この経験をしっかり今後に生かしていきたいところです。

夜の森を登る

暗い森の中を列をなして登っていくと、あちこちに小動物の足跡が。ガイドの方がこれは小さなキツネかタヌキだろう、と教えてくれます。もっと大きければ、雪に沈み込むから、胴体をひきずるような跡がつくと。

そうそう、こちらに来てから何度もそういう足跡を見ました。まるで蛇が這っていったかのような直線状のくぼみが続いている足跡です。でも蛇じゃなくて、雪に対して体が重めのキツネなどが歩くと、ずるずると這ったかのような足跡になるんですね。

ウサギ、シカ、そしてまだ見たことはないけれど、クマ。どれも足跡が独特で面白いです。ウサギの足跡はまるで三本足みたいな特徴的な三角形だったり。最初見た時は、なんだろう?と不思議に思う足跡ばかりです。

うっそうと木が生い茂る夜の森の中は、あちこちから枝が飛び出していてちょっと危険。枝が不意に顔にささったりしないよう注意しながら進みます。こんなときのためにゴーグルはちゃんと用意していました。

夜の森の中は、たくさん針葉樹が立ち並んでいて、頭上を見上げるとフラクタルな枝や葉が描き出す幾何学模様の影絵がとても美しい。

なかには針葉樹なのに葉っぱがない木がちらほらとあり、ガイドしてくれた方によれば、これがカラマツなのだそう。漢字では唐松、あるいは落葉松と書き、日本の針葉樹の高木のなかでは、唯一落葉する種だといいます。

こんなふうに、森の中を自在に歩けるのは、冬だけの楽しみなのだそう。夏場は森の中は笹薮だらけになってしまっていて地面を歩くことはほとんどできないからです。わたしも夏にこのあたりの山に来ましたが、足の踏み場もありません。

でも冬は、うず高く積もった雪が、笹薮を覆い隠して、足場を作ってくれます。今年は暖冬で雪が少ないため、笹薮のてっぺんがあちこちの雪上に顔を出していましたが、それでも夏場よりははるかに歩きやすい。1メートルもの積雪と、沈まずに雪の上を歩けるスノーシューのおかげです。

それにスノーシューなら、ただ雪の上を歩けるだけでなく、滑らずに急斜面を登ったり降りたりすることもできます。ふだんならとても登れないような急斜面を、踏破できるのがスノーシューのメリット。

この日も、かなり急な斜面をジグザグに登っていくことになりました。体力のある人が前のほうを歩いて、自信のない人は後ろからほかの人の足跡を踏んで登ってください、と言われたけれど、なりゆきで前から三番目を歩くことになってしまった! この前まで慢性疲労症候群やってた人なんですけど!

スノーシューで急斜面を登ると、かなり大胆に踏み込んでいけるとはいえ、気をつけないとズルっと滑ります。滑ってもそうそう怪我をしたりはしませんが、例の短いブーツに雪の塊が入ってきて冷えるので、なるだけバランスを崩さずに登りたいところ。

前にもスノーシューで雪山を登ったことがある、という別の方は、スキー用のポールを持ってきておられました。スノーシューで山を登ってみるとわかりますが、確かにポールがほしい。

足だけで急斜面でバランスをとるのはなかなか大変です。斜面に生えている木の幹や枝がなんとありがたいことか。

でも意外に木と木のあいだのは間隔が空いているので、手を引っかける場所がなく、両手が暇になって、足だけに負担がかかります。そんなときにポールがほしい! ここも次回は経験を生かしたいところです。

朧月の下でシラカバの焚き火

そうしているうちに、少し開けた場所に出て、妙に明るいのでふと振り返ってみると、ツルアジサイが絡みついた樹木の樹冠のすきまから、青白い満月が見えていました! 少し雲がかかって朧月ではあるけれど、間違いない、スーパームーン!

インストラクターの方がその場に焚き火を灯してくれて、みんなで集まります。油分の多いシラカバの樹皮を燃料に、雪上に焚かれる炎は、宵闇を背景に青白い雪を照らし出し、とても美しいコントラストをなしていました。

ろうそくの火、薪ストーブの火、ゆらめく炎はいつだってどこか心を穏やかにしてくれますが、雪上にともった焚き火の炎は格別です。勢いよく燃え盛りながらも、凍てつく風に吹かれて今にもちぎれそうなほど踊る炎は、とても芸術的で、うっとりします。

あたたかいハーブティーをいただきながら、雪上でしばしの休憩。氷点下の真冬の山奥でキャンプができるなんて、こうしたイベントならではの機会です。自分だけだととてもできない。

雪の絨毯の上に腰掛け、ごろんと寝転がってみると、上質なクッションのように優しく包み込まれます。しっかりスキーウェアを着ているおかげでまったく寒くも冷たくもなく、ただただ心地よい。ただし起き上がるのはなかなか大変です。

足跡もなく、真っ白な毛布のような新雪の上に、寝転がって見上げるスーパームーン。なんて贅沢なのだろう。

流れる雲がうっすらと覆うスーパームーンは朧月。薄紙を重ねたようにぼかされた明かりは、ほのかに森一帯に降りそそぎ、人里から離れた雪山にいるわたしたちを見守るかのように、夜空高くたたずんでいました。

雪原のスーパームーン

焚き火を囲んでしばらく休んだあと、わたしたちは帰路につきます。燃え盛るシラカバの樹皮の焚き火をひっくり返し、氷点下の雪の地面に埋めて火を消すのは、なんともエコな後片付けです。

ガイドをしてくれている方が、ふと近くのしげみから、何かの草を摘んできます。葉っぱをすりつぶして匂いを嗅ぐように言います。

それはわたしたちに身近なハーブで、なんでも学名はアルテミシアといい、月の女神アルテミスにちなんでいるのだとか。どこかで嗅いだことがある匂いにラベンダー?と言う人もいましたが正解やいかに。

その答えはなんとヨモギでした。日本の野草のイメージが強すぎて、ハーブという認識がなかったけれど、世界で愛される薬用ハーブなのですね。日本のマンサクが、外国ではウィッチヘーゼルだったりするように、文化が変われば、その名前も、まつわる物語も大きく変わります。

帰り道は、登ってきたのとは別の道を通ることにしよう、と話すインストラクターの方のあとをついていくと、そこには一面の大雪原。思わずみんな感動して声が上がります。

そこは夏場だと牧草地になっている場所らしく、このあたりの山合い付近は、確かに冬になると、あちこちの牧草地がこうした雪原に変貌します。でも、夜中に眺めるとまるで別世界。

うっそうとした暗き森を抜ければそこには大雪原が広がっていた、なんてファンタジーの世界のようです。思わず我を忘れて恍惚と風景に見惚れます。

しかも、そのときついに雲が晴れて、朧月だったスーパームーンがその全貌を現しました。煌々と照り輝くスーパームーンに照らされた大雪原の明るいことといったら!

前に失われた夜の歴史 で読んだこのエピソードが脳裏をよぎりました。

月光は健康に害を及ぼすと言われていたにもかかわらず、イギリスの多くの地域で、人々は月を「教区民のランタン」と呼んでいた。

満月かほぼそれに近い月を、冗談半分に「第二の太陽」になぞらえることもあった。

時には真夜中に夜明けだと思って目を覚まし、「偽の曙」にだまされたことに気づく者もいたほどだった。

1762年にペンシルヴェニア州のある商人は、日記に「月がとても明るいので、夜明けと間違えた」と書いている。「起きて服を着たが、家族を起こして明かりをつけた後で、まだ二時前だとわかった」。

またヨークシャーの仕立屋見習いメアリー・イェーツは、午前三時に「夜が明けたと思って」起きたが、そうではなく、「月の光だった」。満月は夕暮れに上り、夜明けに沈む。ほかの月相と違って一晩中明るいのだ。(p196)

これを読んだときは、もう電灯が普及した現代では、こんな夜明けのように明るい満月など見る機会もなかろう、と思っていましたが、そんなことはなかった。

数ヶ月前には産業革命前に勝るとも劣らない最高級の星空を目撃できました。

それと同じように、今回は、やはり産業革命前の人々が目にしたであろう夜明けのような満月の明かりを、まさに目撃できたのです。一面の鏡のような広大な雪原に反射する月の光のまばゆいことといったら!

イギリス北部のいくつかの地域では、これを「夜通しの光」(スルー・リート)と呼んでいた。

満月の光は、産業革命前の景色の輪郭を思いがけないほど細部まで明らかにし、「無数の魅力的なものを発見するのに十分な明るさで私を喜ばせてくれる」と1712年にある作家は書いている。

道を行く人々は、色もある程度識別でき、赤と黄色、緑と青の違いがわかるほどだった。(p196)

確かに、これほど明るければ、着ている服の色くらい見分けがつくというものです。星明かりだけのときは全然何も映らなかったスマホのカメラでも、この満月の明かりならそこそこ風景も写ります。

同行していた人たちは一斉に雪原に向かって駆け出し、スノーシューで雪煙を巻き上げながら、満月の下を走っていきました。わたしはブーツに氷が入らないようにしないといけないので、そこまで大胆にはなれませんでしたが、うきうきと心躍りながら、月下の散歩を満喫しました。

一面の雪野原から満月を見上げて、わたしはレイチェル・カーソンがセンス・オブ・ワンダー で書いている幼い甥のロジャーと同じように感じました。

夜ふけに、明かりを消したまっ暗な居間の大きな見晴らし窓から、ロジャーといっしょに満月が沈んでいくのをながめたこともありました。

月はゆっくりと湾の向こうにかたむいていき、海はいちめん銀色の炎に包まれました。その炎が、海岸の岩に埋まっている雲母のかけらを照らすと、無数のダイヤモンドをちりばめたような光景があらわれました。

…わたしのひざの上にだっこされて、じっと静かに月や星や海面、そして夜空をながめながら、ロジャーはそっとささやいたのです。

「ここにきてよかった」(p16)

もっとスノーシューで旅してみたくなった

雪野原のムーンウォークを楽しんだ後は、雪原の端の急斜面を降りて、出発地点まで帰ります。こんなに急な勾配を滑らずに歩けるのだろうか、と思いましたが、スノーシューなら登ってきたときと同じようにしっかり踏みしめて降りることができました。

なかには斜面さえもスライディングしながら走り下りていくワイルドな方たちもいました。

下り坂にさしかかると、もう終点が近いとわかってので、わたしもブーツに雪が入り込むのを恐れず、大胆になってざくざくと下っていきました。

でもそのおかげで二度も足を滑らせて転んでしまいました。痛くはなくて、ただ面白おかしいだけでしたが。

斜面を下っていくと、すぐに明かりが見えてきて、自分たちがいかに人里の近くを歩きまわっていたのかがわかってハッとします。

別世界のような満月の雪原にわくわくしていましたが、ディズニーランドから出てきたときのように、夢の国から戻ってきました。もしあの場面だけ切り取って体験したら、北極圏の最果ての大雪原だと言われても信じてしまいそうだったのに。

見方を変えれば、それは、ふだん住んでいる町の近く、わたしの生活圏の近くに、こんな別世界のような場所がまだまだたくさんある、ということでもあります。

せっかく日本の最果て、観光地化されていない荒々しい大自然が残る道北にまで引っ越してきたんですから、もっとこういう体験をしていきたいと感じました。

そのためには、今回みたいに自然に詳しいインストラクターの助けを借りることはとても大事ですが、個人的にスノーシューを買ってみる、というのも楽しそう。

スノーシューを買っても、さすがに自由に雪山をうろうろできるわけではありません。この地域はときにホワイトアウトして町なかで遭難しそうになるほどですし、野生動物の危険もある。自然の脅威を甘く見てはいけません。

でもスパイクタイヤの雪道仕様の自転車を買ったおかげで行動範囲が広がって、冬の大自然をかなり満喫できているように、スノーシューがあれば、歩いていける範囲が広がります。冬場は積雪で侵入できないような公園のなかを散策することもできる。それを思えば、買ってみる価値はあるかな、と思いました。

ここに引っ越してくる前、地元の人たちは、わたしがただ夏の良い時期だけを見て、風光明媚な土地に淡い憧れを抱いているかに思っているようでした。道北の冬、-20℃もの最も厳しい時期を経験せずに引っ越してくるのはナンセンスだと。

確かにそれはそうです。でもわたしは、実際に引っ越して、それをじかに体験してみない限り、何もわからない、と考えました。真冬に旅行してきて、たった一週間、氷点下の寒さを経験したところで、いったい何がわかるというのでしょうか。住んでみないと良し悪しはわかりません。

実際に引っ越してきて、冬の入り口から、-20℃の今日このごろまでを経験してきた今思うのは、やっぱりじかにすべてを体験できてこそわかることが多かった、ということです。

毎日自転車で雪道をサイクリングしているので、ただいっとき旅行に来る場合とは違って、身体がしっかり寒さに馴染んでくれています。旅行者として体験する冬と、住民として体験する冬はまったく違います。

わたしがここ道北の冬に愛着を抱きつつあるのは、単に今回、氷点下のスノーシュー体験をしたからではなく、毎日の積み重ねあってのことです。

親子の愛着がたった一瞬で育まれることはないように、自然と人との絆も、ひととき旅行で訪れてではなく、実際に住んで触れ合ってこそ育まれるものです。

湖水地方に住むジェイムズ・リーバンクス羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季 で述べていたこの言葉が、実感を伴って迫ってきます。

横殴りの雨のなか、あるいは雪の降る冬のあいだ、観光客はひとりも来ない。だとすれば、彼らの“湖水地方愛”は好天の季節限定なのだろうか? 

この土地とファーマーの関係は、どんな状況でもこの地に留まるという条件のもとに成り立っている。

言ってみれば、若いころに出会った美人の女の子への感情と、何年もの結婚生活を経たあとの妻への感情の違いに似ているかもしれない。(p128)

もちろん、わたしは、まだ、ここの自然と出会って半年、実際に住み始めてたった三ヶ月の新参者にすぎません。

-20℃の氷点下や、ホワイトアウトするような吹雪や、雪かきと雪下ろしを日々経験してきましたが、地元の人に言わせれば、今年は雪が少ない暖冬です。この程度で「どんな状況でもこの地に留まるという条件」はクリアできません。

だから旅行者ほど浅い絆ではないとはいえ、まだまだ愛着を結ぶ道のりはこれからです。

親子の愛着にせよ、自然との愛着にせよ、それは一日一日の積み重ねであり、こんこんと降り積もった薄い雪片が、いつの間にか1メートルを超す積雪になって大地を覆うようなものです。

だからわたしにとっては、毎日、毎日、繰り返し、繰り返し、自然に親しみ、自然を体験する手だてが何よりも必要です。自分の足であちこちをまわり、身をもって経験せねばなりません。

今まではそのひとつが自転車でした。これからはそこにスノーシューを加えてもいいのかもしれません。

そうやって日々少しずつ自然と親しみ、愛着を深めたとき、わたしはいつか言えるのでしょうか。「わたしのこの土地への愛着は、言ってみれば、何年もの結婚生活を経た愛着のようなものなのだ」と。

半年前に見た満天の星空、日々サイクリングのなかで味わう空気、そして今回見たスーパームーンの夜明けのような明るさ。これらひとつひとつの経験が、わたしと自然界とのつながりを彩り、いつしか愛着の絆へと成長していくことを願って、これからも身体的(ソマティック)な経験を積み重ねていきたいと思います。

投稿日2019.01.24