ウェンデル・ベリーの詩「闇を知る」に学ぶ、想像力を高めたい作家のためのただ一つのアドバイス


わたしは昔から夜が大好きです。真夜中、ミッドナイトブルー、夜のとばり。どれも想像力をかきたててくれる愛すべき時間です。

どれほど夜が好きかというと、このサイトはもともと「夜のとばりの散歩道」というタイトルで始めたくらいです。わたしの創造的なアイデアは、たいてい夜の眠りのはざまに降ってきます。謎めいた夢が、わたしをインスピレーションへといざなってくれます。

幻想的な夢をアイデアの源にしたアーティストたち―なぜ明晰夢やリアルな夢を見るのか
夢を創作に活用したクリエイターたちのエピソードと幻想的な夢のメカニズム

どうしてわたしはこんなに夜が好きで、真夜中にアイデアを思いつくことが多いんだろう? ずっと不思議に思っていました。ただ単に、わたしが、たまたま夜という時間帯を好きだったからなのか。ヒバリではなくフクロウに生まれついた、ただそれだけのことだったのか。

最近、歴史学者のロジャー・イーカーチという人が書いた、失われた夜の歴史という本を夢中で読んでいて、ついに納得のいく理由にたどりつきました。

なんてことはない、わたしは昔から、どうして夜が愛すべき世界なのか、なぜ想像力をかきたててくれるのか、その理由を知っていて、絵の考察カテゴリの記事にも書いていたのです。だけど、それが、わたしの大好きな夜と結びついているとは、今の今まで、なぜか気づいていなかっただけでした。

わたしが夜を愛する理由、それは、ずっと前に書いた この話と深くつながっていました。

絵のアイデアが思いつかないときに役に立つ「しみづくり技法(ブロッティング)」

この記事では、夜という時間帯が、創造的なアイデアを刺激する理由を探ってみます。古代の人たちが、昼間ではなく、夜に独創的な物語を次から次へと生み出した、という歴史的証拠も調べてみたいと思います。そして、ウェンデル・ベリーの詩に集約された、想像力を求める作家のためのアドバイスを紹介することにしましょう。

「やや暗い景色に心惹かれた」

最初に書いたように、今回の話題は、わたしがかつて書いた、しみづくり技法の記事とつながっています。そのとき書いたのは、要約するとこういうことでした。

わたしたちは、不完全で欠けた図形を見たときに、想像力が刺激されます。たとえば、あいまいな形の雲を見て、さまざまな生き物を連想したり、インクの染みを見て、思っても見ないアイデアが浮かんだりするように。レオナルド・ダ・ヴィンチや、アレクサンダー・カズンズ、ワシリー・カンディンスキーのような画家たちは、アイデア出しにそれを活用していました。

記事で書いたように、これは心理学的には、「パレイドリア」(pareidolia)と呼ばれる現象です。特に、何もないところから人の顔を連想してしまう場合は「シミュラクラ現象」(Simulacra)と呼ばれます。

わたしはこの記事を書いたとき、あくまで雲や染みや落書きといった、あやふやでよくわからない形から生じる連想について考えていました。でも考えてみれば、もっとパレイドリアを頻繁に経験して、連想力がこれでもか、と刺激される状況があるんじゃないでしょうか。

最近読んだ、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方という本に書かれていた、アイルランドの哲学者エドマンド・バークのコメントは、もっとパレイドリアを体験するにはどうすればいいか、わかりやすく教えてくれています。

1757年、28歳のバーグは『崇高と美の観念の起源』を出版し、啓蒙思想の中心的人物となった。

世俗主義者だったバークは、アイルランドの自然のなかを歩きまわり、もっと適切な表現がありそうな気もするが、「心が動かされた」と綴った。

感受性が強く、芝居がかったものが好きなバークは絵になる美しい景色よりも、やや暗い景色に心惹かれた。なかでも不安をかきたてられる景色が好きで、ぞっとするようなものであればなおいい。

「自然界の偉大で崇高なものが生みだす情念は、もしもこれらの原因が最も強力に作用する場合には驚愕となる。驚愕とは或る程度の戦慄を混じえつつ魂のすべての動きが停止するような状態を言う」と、バークはこの著書に記した。

そして、流れの激しい大きな滝、激しい嵐、暗い木立といった風景を愛した。(p261)

エドマンド・バークの想像力を刺激してくれたのは、「絵になる美しい景色よりも、やや暗い景色」でした。なぜでしょうか?

考えてみれば至極当然の話です。「やや暗い景色」というのは、天然に作られた「染み」のようなものだからです。例えば、うっそうと生い茂る森の中を歩いていると、向こうの暗がりの中に、小柄な老人がたたずんでいるのが見えて、ハッと立ち止まります。でもよく近づいて見ると、それはただの木のうろだったことに気づきます。

「やや暗い景色」では、風景の細かなところまで光が当たっていないので、全容がはっきりくっきり見えることはありません。いわば、一部の情報が欠けている風景であり、脳は欠けた情報を補うために、想像力を働かせます。

暗がりが生み出すパレイドリアの想像力を、最も活用しているのはホラー映画でしょう。本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかの中で、こんなことが書かれていました。

A・アルバレス Night:Night Life,Night Language,Sleep,and Dreams(New York:Norton 1995)のThe Dark at the Stairsという章には、闇への恐怖に対する卓見が述べられている。

「暗闇の恐怖というのは、基本的に曖昧なものである。闇そのもののように、それは実体がなく、圧倒的で、脅威と死に満ちている」。

そのため「ホラー映画では、どんなに最新の特殊効果が使われていても、ついに怪物の姿が見えたときには、必ずがっかりしてしまうのだ」(p390)

ホラー映画を怖くしているのは、妖怪やゾンビや悪魔ではありません。「闇そのもの」なのです。はっきり姿が見えず、そこに何があるのかわからない、という曖昧さこそが、わたしたちの不安と想像力をこれでもかとかきたてるので、何かが見えることよりも、何も見えない、あるいは一部だけしか見えていない状況のほうが、よっぽど怖いのです。

わたしも、これには思い当たる節がたくさんあります。わたしが大好きなミステリは、ジョン・ディクスン・カーのおどろおどろしい探偵小説ですが、読んでいて一番楽しいのは、闇に包まれた、全容がわからない段階です。ゲームの場合も、いちばん楽しいのは、全貌が見えておらず、謎に包まれている序盤部分です。あたかも光が明るさを増すように、謎を覆い隠していいた暗がりが晴れていくにつれ、がっかりしてつまらなくなってきます。結末は気になるので最後まで楽しみはしますが、最初のころのあのゾクゾクくるような魅力は薄れてしまっています。

パレイドリアの本質は、重要な情報が欠けていて、不完全だからこそ、それを補うために、わたしたち自身の想像力が引き出される、ということです。語り手がすべてを語りつくしてしまわず、想像の余地を残してくれているおかげで、わたしたちは謎を解こうと想像力を働かせます。ときとして小説が映画よりリアルなのは、文字媒体には視覚情報が欠けていて、わたしたち自身の内なる想像力を刺激して、イメージを補うよう促すからです。ハリー・ポッターの小説を読んだ人たちは、それぞれのハリー像を想像で補いますが、映画を見た人は、みんなダニエル・ラドクリフの顔しか思い浮かびません。

わたしたちが想像力を働かせるには、あいまいで不確かで、重要な情報の欠けた不完全なものが必要だ、ということです。

(ちなこに心理学においていは、未完了の出来事、つまりまだ全容が明らかになっていない途上の物事ほど記憶に残る「ザイガルニック効果」というものが知られています)

「明かりはありすぎてもいけない」

では、重要な情報の欠けた不完全な何かは、どこに行けば見つけられるか。

エドモンド・バークが暗い景色を愛したのと、ホラー映画の闇が想像力を刺激するのは、どちらも同じひとつの教訓を与えてくれます。

わたしの好きな作家オリヴァー・サックスは、タングステンおじさん:化学と過ごした私の少年時代 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)という本で、自分の子ども時代を回想して、こんなエピソードを書いていました。

おじの電球に刺激を受けた私は、思いつきで何かをするのが好きなせいもあって、階段の下の押入に自前の照明システムを設置した。

そこは、いつもわくわくさせられると同時にちょっぴり怖い場所でもあった。なかに明かりがなくて、一番奥は神秘の世界に消えてしまっているように思えたのだ。

…だが、明かりは押入のすみずみまで照らし、暗闇ばかりか神秘までも追い払ってしまった。だから思った。

明かりはありすぎてもいけない―秘密をそのままにしておくべき場所もあるのだ、と。(p81)

暗がりで神秘的だった押入が、ただ照明で照らしただけで―それだけのことで―神秘的でなくなってしまいました。隅々まで明るくなるだけで想像力が働かなくなってしまったのです。

とすれば、わたしが夜を昔からこよなく愛し、創造的なアイデアをたくさん思いつくのは、このものすごくシンプルなたったひとつの理由に根ざしているのではないでしょうか。夜は暗いから想像力が働く。たったそれだけのことです。

もちろん、もっと多くの理由が関わっているはずだと言いたくはなりますが、どれほど様々な要素が関わっていようと、創造性が刺激されるのは暗いからだ、というオッカムの剃刀は、とても切れ味鋭い論理に思えます。

今回読んでみた失われた夜の歴史という本を通して、それを確信しました。

この本は、産業革命以前の人々の暮らしにおける、夜の果たした役割を、膨大な文献から浮き彫りにした歴史資料です。

わたしはこの本を読むまで、産業革命以前の人たちにとって、夜がそれほど大きな役割を果たしているとは考えてもみませんでした。だって、夜なんて、昔も今も同じだと思っていたからです。

ところが、そんな単純な話ではありませんでした。産業革命以前は、わたしたちの身の回りにあふれている電灯が一つたりともありませんでした。当時の照明は火でしたが、ロウソクやランプの火は、今の照明とは比べものにならないくらい暗いものでした。

産業革命前の家庭における照明を過大に評価すべきではない。

現代の電灯と、それに先行する照明器具との間には、驚くほど大きな隔たりがあるのだ。

一個の電球から発する光は、蝋燭や灯油ランプが発する光の百倍も強い。

…今日の電灯のように部屋の隅々まで照らし出すのではなく、光は暗黒の中でかすかにその存在を示していたにすぎなかった。(p171)

どことなく、さっきのオリヴァー・サックスの子ども時代のエピソードを思い出させる表現ですね。

オリヴァー・サックスは、あくまで、押入の奥が隅々まで照らされないことで神秘的だと感じていましたが、産業革命以前はその規模が違っていました。部屋の中すべて、街全体、いえ世界全体が、ちょうど神秘的な押入れの中のようなものだったのです。たとえ昼間は太陽の光によって明るかろうが、夜はすべての場所が暗がりになり、押入れの奥のような神秘的で、ときに恐怖をあおる闇に包まれました。

18世紀の有名な作家ジャン=ジャック・ルソーは、「私たちは人生の半分は目が見えない」と書いたそうですが、当時はひとたび日が沈んでしまえば、どこもかしこも真っ暗で、何も見えなくなってしまいました。

日本でも「たそがれ」が「誰そ彼」つまり「あなたは誰?」という言葉から来ているように、日が暮れたら、すれ違う人の顔さえ見分けられなくなりました。真夜中になれば「草木も眠る丑三つ時」であり、化け物や幽霊が出るとされていました。なぜかって?

それはもちろんパレイドリアのせいです。はっきり見えないので、あたり一面、どこもかしこも、恐怖と不安と想像力をこれでもかとかき立てる、あのホラー映画ような世界に変貌してしまったわけです。

「夜は精霊たちの領域だ」

この失われた夜の歴史は、電灯のない、中世以前の人々の暮らしを調べた本ですが、西欧諸国の人もまた、夜の闇によって生じるパレイドリアから、さまざまな想像を膨らませていたことがわかります。

当時の人たちは、今では神話や伝説とされている悪魔や妖精やオークの存在を本気で信じていました。というより、そうした伝承はすべて、まだ電灯がない、中世以前の時代に作られました。今のわたしたちの世の中には、アニメにしても映画にしてもゲームにしても、さまざまなコンテンツがあふれていますが、ファンタジー作品のほとんどは、ギリシャ神話とか北欧神話といった、古代の伝説をヒントに作られています。直接参考にしてはいなくとも、元を辿れば、ファンタジーはすべて、産業革命以前の時代に生まれた伝説に源を発しています。わたしたちの時代の娯楽産業は、そのインスピレーションの多くを、古代の人々の想像力の産物に負っているわけです。

ではどうして、中世以前の人たちは、それほどまでに豊かな想像力を働かせ、神や悪魔や人外の魔物たちの物語を、次から次に飽くことなき意欲で紡ぎ出せたのでしょうか。

ひとことで言えば、当時は電灯がなく、真っ暗だったからです。

あることわざは、「夜は精霊たちの領域だ」と警告している。恐ろしい光景や異様な物音、有害な霧といったように、あまり好ましいところのない夜の世界は、無数の悪霊や精霊を招き寄せた。

…あるドイツの聖職者は1532年に、「人は毎日のように、悪魔によってなされた忌まわしい所業のことを耳にする。やれ何千人という人が死んだ、やれ船が大勢の人を乗せたまま海に沈んだ。やれ国が、都市が、村が滅びたなどなどだ」と書いている。(p36)

まるでファンタジー小説や、ゲームの中の話みたいですが、当時はそれが現実でした。なにしろ、毎晩のように、神秘的な闇があたりを包み、真っ暗な押入れの中を手探りで進むかのような生活を強いられるからです。

目が見えないことが、どれほど想像力や不安をかき立てるか知りたければ、「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」という体験に参加してみるといいでしょう。これは目の見えない人の手ほどきで、そうした人の日常を体験できるイベントですが、目隠しするだけで、どれだけ感覚が鋭敏になり、想像が刺激されるか実感できます。

興味深いことに、オリヴァー・サックスは、心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界の中で、わたしたちの脳は、たった5日間目隠しされるだけで、劇的な変化を遂げる、という研究を紹介しています。

2008年、ロトフィ・メラベとアルバロ・パスカル=レオーネのチームは、目の見える成人の場合でも、たっつた5日間目隠しをされただけで、非視覚的な行動と認識に著しくシフトすることを示し、それに付随する脳の生理学的変化を実証した。(p237)

この研究では、目隠しされて90分経つと、早くも触覚が鋭敏になりはじめました。そしてたった数日間、目が見えないだけで、脳はその環境に適応するため、柔軟に配線を変化させ、聴覚や触覚の秘められた能力を解き放ちました。また、想像力が刺激され、本来そこにないものが、まぶたの裏側にありありと見えることもありました。

毎晩毎晩、ルソーが言うように「人生の半分は目が見えない」状態になっていた中世以前の人たちが、あれほど多種多様な神話や伝説を考え出し、しかもそこに出て来る魔物たちを現実の脅威として恐れ敬っていたのは、当時の明かりの暗さを思えば当然なのです。

現代のわたしたちは、夜になっても、そこまで豊かな想像力を刺激されることはありません。その理由も至極単純で、ただ明るすぎるからです。どれほど明るすぎるかというと、さっき書かれていたように、ロウソクの光を百本束ねて、やっと白熱電球一個の明るさになる、ということを思えばイメージできるでしょうか。わたしたちの生きている時代の明かりは、白熱電球どころかもっと明るい電飾がとてつもない量使われていて、宇宙から見ても、都市が明るく輝いているほどです。中世以前の100倍どころか、比較にならないくらい明るいことがわかります。

ということは、わたしたちの時代は、世界レベルで、さっきオリヴァー・サックスが書いていた変化が起こってしまった時代なのです。つまり、「明かりは押入のすみずみまで照らし、暗闇ばかりか神秘までも追い払ってしまった」のが世界レベル、地球レベルで起こったのが、今の世の中なのです。

よく、中世以前の人たちが魔術や精霊を信じていたのは、科学が発展していない時代だったからだ、と言われますが、この本を読む限り、それは間違っています。単に、電灯がなかったから、信じていたのです。電灯が発明されるまで、世界は押入の隅のような神秘的な場所でした。しかし電灯が発明され、普及したことで、人々は、それまで恐れていた魔物や精霊がどこにも存在しないことに初めて気づき、納得しました。それによって、宗教の影響が衰退し、科学の時代が幕を開けました。

科学が宗教や迷信を衰退させたわけではありません。だって、アリストテレス以降、科学者はいつの時代も存在していたからです。紀元前にはすでにエラトステネス地球の大きさを計測するという偉業を成し遂げていましたし、早くも11世紀にはイブン・アル=ハイサムをはじめとする学者たちが高度なイスラム科学を発展させていました。なのになぜ、2000年以上も、科学の時代が到来しなかったのか。

それは、18世紀に起こった産業革命でガス灯が開発され、19世紀にトーマス・エジソンが電球を発明するまで、夜を明るくする手段がほとんどなかったからです。電球が、夜の闇という押入れを明るく照らし、魑魅魍魎が存在しないことを確証してはじめて、ようやく人々は、魔術ではなく科学を信じる用意ができたのです。

それは裏を返せば、電球は、この世界という押入の暗がりから、精霊や悪魔や妖精や魔物たちの居場所をなくし、過去の物語や伝説、神話の中へと追放してまったということでした。明かりは、夜の闇を追いやるともに、人々の生活を彩っていた想像力さえも追い払ってしまいました。

ある詩人が述べたように、明かりは「我々から夢や幻想をだまし取った」のです。(p480)

「光をまとわぬ足と翼だけが、闇の世界へといざなう」

産業革命以前の人たちのリアルな暮らしを知ると、ただ暗いというシンプルなことが、どれだけわたしたちの想像力を刺激していたかがわかります。そして、現代のわたしたちが想像力を発揮するときも、暗さがどれほど大切かがわかります。

この前書いたように、わたしの好きな児童文学作家エリナー・ファージョンは、子どものころから、「夜の想像ゲーム」を通して、想像力を養っていました。エリナー・ファージョン伝―夜は明けそめたには、こう書かれていました。

エリナーが一人でする空想遊びもあった。眠れない時は果てしないお話の夜になる。

この「不眠の夜遊び」では劇、本、現実世界の中から彼女のお気に入りの人物が一堂に会する。アポロとダイアナ、兄と妹がそこでの主役であったのはある意味で自然だ。

このすばやい想像力が後年大いに活用される。大人になって、眠れない夜に思いついたお話や詩は翌日かならず書き留められて作品になった。(p41)

作家エリナー・ファージョンを支えていたのは、夜に育まれた想像力でした。エリナーは幼少期から目が悪く極度の近視だったのでよくパレイドリアが生じたでしょう。彼女が子供時代を過ごした19世紀末はまだ明かりも限られていたので、夜はまだ想像力をかきたてるだけの暗さを残していました。夜、なかなか寝つけず、暗がりの中で過ごす時間は、中世以前の人たちが夜の闇を背景に想像した神話の登場人物たちを現代によみがえらせました。電灯によって居場所を奪われた妖精や魔物たちも、この時間だけは、命を吹き込まれて生き生きと動き出しました。

わたしは、自分も同じ経験をしてきたので、エリナーの体験がよくわかります。さすがに、わたしの時代はもう24時間社会で、産業革命以前の中世や、エリナーの子ども時代ほどの暗さはありませんでしたが、部屋に遮光カーテンがつけられていたこともあって、それなりの暗がりの中で夜を過ごすことができました。わたしは、眠れぬ夜に、空想の友だちと出会い、果てしない世界を冒険し、現実よりもリアルな空想世界を体験しました。それが、今のわたしの創作における想像力を支えています。

子どもの4%が持っている「空想傾向」 とは? 絵が描けるのは描きたい世界があるから

ということは、エリナー・ファージョンにしてもわたしにしても、作家としての想像力を形作ってくれたのは、主に夜だったのです。わたしがこれほど夜という時間を愛してきたのは、夜こそが、わたしの想像力を生み出してくれた母であり、わたしの空想世界が存在する国土だったからなのです。

作家の創造性において、夜、あるいは暗さ、がとても大事だとすれば、アイデアやインスピレーションに飢えている作家は、電気を消して暗がりへ身を置けばいい、ということになります。

例えば、部屋を真っ暗にして、ロウソクに火を灯すだけでも、きっと想像力が刺激されます。よく蛍光灯より、間接照明のほうがロマンチックだとかムードがあると言われます。それは単純に、明かりがほのかになるからでしょう。部屋の隅々まで照らし出してしまう明るい照明と違って、間接照明は、神秘的な暗がりを残してくれるので、想像力が働くのです。

映画館で真っ暗な中 鑑賞するのも、明るいところで鑑賞するより、雰囲気が味わえるからです。わたしの好きな雰囲気のあるゲームの数々が、エドモンド・バークが言うような「やや暗い景色」や、「不安をかきたてられる景色」のビジュアルなのは、美しく高精細なグラフィックより、想像力をかきたててくれるからです。日中にディズニーランドにデートに行くより、夜に行くほうがロマンチックなのもそうです。

わたしは、最近、自分が明るさに敏感であることに気づき、遮光レンズを使うようになりましたが、そのサングラスをかけて夜道を歩くと、あまりに美しすぎて、えも言われぬ感動を覚えます。理由がよくわかっていませんでしたが、答えは単純でした。精霊や魔物たちをこの世から追放してしまった、あの無粋な明るさを追い払い、ファンタジーがまだ現実だった時代へと帰ることができるからです。

わたしは、多くの人より色、つまり光の波長に敏感なようです。それが色鮮やかな絵を描く助けになっているようです。わたしは暗闇の中でも かなり色を識別できるため、メガネ屋さんに驚かれたことがあります。でも、失われた夜の歴史によると、それは、産業革命前の、本物の夜の暗闇と親しんだ人たちにとっては、わりと当たり前のことだったようです。

当時の人々が身を以て知っていたように、夜の暗さといっても多種多様で、時には一晩のうちにも変化した。「穴蔵のように真っ暗」(ピット・マーク)などと言われる真っ暗闇から満月の明るい夜に至るまで、さまざまな場合があり、現代人の目では、その微妙な違いを識別できないこともある。

…道を行く人々は、色もある程度識別でき、赤と黄色、緑と青の違いがわかるほどだった。現代の照明技師はによれば、直射日光の強さは5000から1万フートキャンベル(光量を策定する単位)で、月光はおよそ0.02フートキャンベルに相当するということだ。

驚くほどの差だが、実はに加減の目が色や細かい形をまったく見て取ることができなくなるのは、光量が0.003フートキャンベル以下の時だという。(p196)

電灯のない時代の人たちは、闇夜の中で生活するのが日常だったので、色や明るさに対する繊細な感覚を持っていました。現代の多くの人たちは、闇の中でそのような区別ができませんが、それはつまり、この繊細な能力が退化して失われたか、使われず眠った状態にあることを意味しています。ちょうど洞窟の中で暮らすコウモリや、光の届かない深海に適応した魚と逆のことが生じています。ずっと光の差さない場所に適応した動物は、目が退化して光を感じられなくなりますが、逆に現代社会のように24時間明るすぎるところに適応した生物、つまり人類は、暗さを見分ける繊細な能力が退化してしまいます。

それを証拠づけているのは、オリヴァー・サックスが色のない島へ: 脳神経科医のミクロネシア探訪記 (ハヤカワ文庫 NF 426)で書いていたマスクン(遺伝的な全色盲の光過敏の人たち)の研究でしょう。この人たちは、明るい光が苦痛なので、昼間は外に出ず、主に暗がりの中で生活していますが、その結果、暗闇の中でわずかなグレーの濃淡の違いを判別できる繊細な感覚を持っていました。

生まれつきモノクロしか見えない全色盲の人たちから学ぶ不思議な「色」の感覚世界
色は目だけでなく五感すべてで味わうときにさらに豊かになる

現代の明るすぎる世界で生きる人たちは、この種の繊細な感覚が使用されず、いわば廃用症候群(デコンディショニング。使われない機能は衰えるという現象)という状態にあります。もし、この能力が衰えていなければ、わたしたちは闇夜にどんな景色を見るのでしょうか。きっと、本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかに引用されているフィンセント・ファン・ゴッホの言葉のような、そして彼が描いた有名な「星月夜」のような世界でしょう。

夜は昼よりもたくさんの色であふれている。―フィンセント・ファン・ゴッホ(1888)

現代社会に満ちあふれた、ありとあらゆる過剰な光は、わたしたちからパレイドリアの「夢や幻想をだまし取った」ばかりか、自然界の微妙な色合いや明るさを見分ける力を退化させています。身近な世界にあふれる美に気づきにくくなったら、作家にとっては致命的なのは、言うまでもありません。

もしわたしが、現代の他の多くの人たちよりも、そうそた繊細な感覚をいくばくかでも有しているとすれば、それはエリナー・ファージョンと同じように、眠れぬ夜の暗闇に子どものころから親しんできたおかげなのかもしれません。他の大勢の人たちよりも、暗闇の中で過ごす時間が少しだけ長いおかげで、闇夜で過ごした産業革命以前の人たちの感覚の名残を有しているのかもしれません。

こうして考えると、想像力を高めたい作家に役立つアドバイスは、アメリカの詩人ウェンデル・ベリー(Wendell Berry)が書いた、「闇を知る」(To Know the Dark)という詩に集約されると思います。(訳文は本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかからの引用)

To go in the dark with a light is to know the light.

光を手に暗闇を訪れても、明るさを知ることしかできない

To know the dark, go dark. Go without sight,

暗さを知ろうとするなら、闇を進むことだ。漆黒の闇を

and find that the dark, too, blooms and sings,

暗闇もまた花を咲かせ、歌を奏でる

and is traveled by dark feet and dark wings.

光をまとわぬ足と翼だけが、闇の世界へといざなうのだ

想像力がほしいなら、いま手元にある明かりを消し、スマホやテレビやパソコンの電源をいったん切ることです。そして、光を手に持たずに、暗闇を訪れることです。漆黒の闇を進むことです。一日中蛍光灯の下で暮らし、明るい画面を見つめるのではなく、暗がりを楽しむ時間を作ることです。

そうすれば、闇があなたの想像力をかきたて、かつて人々が持っていたわずかな色や明るさを見分ける力を呼び覚まします。暗闇に咲く花が見えはじめ、、暗闇に響く歌が聞こえてくるでしょう。

「光をまとわぬ足と翼だけが、闇の世界へと」すなわち、古きことわざに伝わるあの世界、「夜は精霊たちの領域だ」と言われた、あの不思議で暗い王国へと、あなたをいざなってくれるでしょう。

スポンサーリンク