ピカソもゴッホも上手く描こうと悩むより駄作を何百枚も描くことを選んだ

絵に対する他人からの評価が気になって、かえって描けなくなってしまうことがありますか。上手く描けなかったらどうしよう、と悩んで、なかなか描くのがおっくうになってしまうということはあるでしょうか。

失敗を恐れて、挑戦する意欲がなくなってしまうことは、だれにでもあります。あれこれと考えてしまうことが、絵を描く情熱をそいでしまうこともあります。不安に絡め取られると、のびのびと絵を描くことは難しくなってしまうでしょう。

そんなとき、助けになるのは、昔の有名な作家たちについて思い出すことです。彼らは、悩む時間があるなら、とにかく作品を作ろう、と考えたようです。彼らはどのようにして、スランプを避けることができたのでしょうか。彼らが描き続けることができたのはなぜでしょうか。

とにかく描いた人たち

たとえば、ピカソはマルセル・デュシャンやセザンヌやゴッホと同じく、最も多作な画家の一人ですが、生涯で、2万~3万点の作品を描きました。

ゴッホは37歳という若さで亡くなるまでに2000点もの作品を描いたと言われています。

音楽の分野では、バッハは、長年にわたって、週に一曲カンタータを作曲したそうです。

トーマス・エジソンは1093件もの特許を獲得し、その数の記録は今でも破られていません。

こうした人たちは、失敗を恐れることなく作品を作りました。天才と呼ばれるだけあって、有名な作品が多くありますが、それ以上に拙い作品のほうが多かったのです。彼らは傑作よりも駄作を数多く創りました。

ピカソに至っては、知って良かった、アダルトADHDという本によると、晩年の作品群は熱烈なファンだったダグラス・クーパーでさえ、「狂った老人の訳の分からないなぐり描き」と評するものでした。(p71)

とはいえ、それらあまり評価されなかった数多くの作品があったからこそ、名作が生まれた、と考える人もいます。彼らがたくさん描いた作品群は、決して無駄だったのではなく、評価される、されないにかかわらず意味のあるものだったのです。

こうした、作品の質を気にするより、とにかく数をこなそうという姿勢は、創造的な仕事のカギとなるものであり、世界で最もクリエイティブな国デンマークに学ぶ 発想力の鍛え方では次のように説明されています。

『クリエイティブ・シンキング入門』の著者マイケル・マハルコは、量が質を生み出すこと、また自己修正の実践はクリエイティブなプロセスの最後のほうまで避けるべきだということに関する興味深い例の一つとして、真珠採りのダイバーをあげている。

彼はこう説明する。ダイバーは真珠を探しに海に潜っても、牡蠣の貝を一つだけ採って岸に引き返して真珠が入っているかどうかを確かめることはしない。

引き返して自分が幸運をつかんだかどうかを確かめる前に、大量の牡蠣を集めるのだ。これは長い目で見れば、膨大な時間の節約となる。(p248)

ここでは、真珠採りのダイバーを例えに、量が質を生み出すことが説明されています。

たくさん作品を作れば、その中に幾つかは真珠のようにみなされるものがあるでしょう。たくさん作品を作ることにより、技術が精錬されてきたり、描き手のイメージが膨らんだりします。その結果、ときには会心と思える傑作が出来上がることもあります。

創造性の研究で有名なミハイ・チクセントミハイのクリエイティヴィティ―フロー体験と創造性の心理学には、発明家ジェイコブ・ラビノウのこんな言葉が紹介されていました。

人というものは良いアイデアだけを思いついたり、美しい音楽だけを作ることはできないのです。

たくさんの音楽、たくさんのアイデア、たくさんの詩、その他なんであれ、たくさんのことを考えつかなければならない。(p56)

そのうえで、数をこなすうちに、良いアイデアとくだらないアイデアを選別する鑑識眼が訓練されていくと述べています。

こちらの記事にも同様の点についてのスティーブン・キングの言葉が書かれてありました。

クリエイティブのために量を重要視する理由 | ライフハッカー[日本版] はてなブックマーク - クリエイティブのために量を重要視する理由 | ライフハッカー[日本版]

クオンティティがクオリティを保証するなんて正気で論じる者はいないが、クオンティティはクオリティを生み出さないと言うのも、無意味かつ不適当だと思われる。

もちろん絵を描く作家としては、どの作品にも愛着を持っているはずですが、たくさん作品を作るなら、その中でも特にお気に入りの作品にめぐり合うことができるでしょう。

また、こちらの記事では、心理学者Keith Simontonによる同率勝算の規則というものが紹介されています。

Simonton氏の説には興味深い副産物があり、それは私たちの中にあるクリエイティブな潜在力の扉を開く鍵になるかもしれません。

勝算が同じなら、何であれ確実に成功する唯一の方法はとにかくたくさんやることです。芸術に関して言うなら、とにかくたくさん創作することです。それしかありません。

同率勝算のルールが正しいのかどうかはともかく、とにかくたくさん創作することは、潜在的才能の差を超える結果をもたらす可能性が十分にあります。

盲目的な試行錯誤

日経 サイエンス 2013年 06月号 天才脳の秘密という雑誌によると、ピカソは失敗を恐れずに「ゲルニカ」を描きました。

どうしてそんなことがわかるのかというと、ピカソが「ゲルニカ」のために描いた、数十枚の素描が残されているからです。その素描の特徴について、この雑誌にはこう書かれています。

答えを幅広く追い求め、いくつかのアイデアを捨て去り、以前のコンセプトに引き返すことは、盲目的変異と選択的保持(BVSR)と呼ばれる創造性理論の際立った特徴をなしている。(p46)

盲目的変異と選択的保持(BVSR:blind variation and slective retention)というのは、1960年に心理学者のドナルド・キャンベルが作った言葉で、創造的な人は、さまざまな試行錯誤を経て、作品を作る、という点を表しています。

創造的な人は、最初からすばらしい作品をまたたくまに作り上げるわけではありません。むしろ、失敗に終わるかもしれないアイデアをいろいろと試してみなければ、傑作は生まれないのです。

ピカソのゲルニカの素描を見ると、彼は何度も行ったり来たりを繰り返しています。ある素描には、完成版にはない人間の顔が描かれていますが、次の素描では、彼はそれをなかったことにしました。ほとんど完成に近づいていると思われたときでさえ、あえて初期のデザインに引き返したこともあります。

もしピカソが、失敗を恐れ、最初から良い作品を描かなければならない、というプレッシャーにがんじがらめにされていたら、このような試行錯誤は不可能だったことでしょう。

ピカソが、生涯中に数多くの作品を描いたのも、「ゲルニカ」のために数多くの素描を描いたのと同様です。ピカソは、うまく描けなかったらどうしよう、失敗したらどうしよう、と悩んだりはしませんでした。むしろそんなことを考える暇があれば、駄作でも素描でもたくさん描いて、試行錯誤しようと考えたのです。

スランプに陥ったように思えるとき、さまざまな試行錯誤をすることは、確実に上達する近道でもあります。

彼らはなぜ多く描いたのか

それにしても、これらの人はなぜ多作だったのでしょうか。

考えられるのは、外的報酬のために描いていたのではなく、内的報酬に駆られて描いていたのではないか、ということです。

つまり、だれか他人から見て、褒められる絵を描きたい、上手いと言ってもらえるような傑作を描きたい、と思いながら描いていたのではなく、ただ自分の欲求の赴くままに描いていたのです。

ゴッホは、生涯でたった一枚しか絵は売れませんでしたが、それでも何千点も描き続けました。彼の動機が、人からの評価を目的としたものでなかったことは明らかです。

ピカソは、最も多作であった晩年は、死の恐怖を紛らわすために、創作に没頭したそうです。自分自身の心を静め、癒やすために、駄作と言われても描きたい絵を描き続けたのです。

ピカソは新しい表現を試したいがために、人々から高く評価されていた絵の描き方を変えてしまうこともありました。他人の評価より、自分の欲求のほうが大事だったことがわかります。

ピカソの絵を分析したピカソはなぜ天才なのか、脳はその絵をどう見るか という記事にはこう書かれていました。

ピカソは誰かを喜ばせようとして作品を創ることなど皆無だった。報酬を拒み、やりたいようにやった結果、人々が関心をもてばよしとした。

こうした点から、わたしたちが学べるのは、良い作品を創るには、上手く描こうと悩んで、技術についてあれこれ考えるよりも、あるいは他人からの評価について くよくよ考えるよりも、とにかく自分の描きたいものを描き続けるほうが近道だということです。

ヒトはなぜ絵を描くのか――芸術認知科学への招待 (岩波科学ライブラリー)という本によるとピカソは次のような名言を残したそうです。

子どもは生まれながらにアーティストだ。問題は、おとなになってもそれを忘れないでいられるかだ。(p106)

子どもは、ただ描きたいがために絵を描きます。アイデアの良し悪しや、上手いかどうかを気にしたりはしません。だれかの評価を気にして、立ちすくむこともありません。ただ自分の心の赴くままに、のびのびと絵を描きます。子どもにはスランプはありません。

もし、絵を描くのに行き詰まり、意欲が削がれて、スランプに陥ってしまったと感じるなら、子どものころの感覚を忘れてしまっているのかもしれません。そうであれば、ピカソの言うように、その感覚を思い出し、忘れないようにする必要があります。

他人の評価や、上手い下手、という概念を一切忘れて、ただ描くことを楽しむことができます。ピカソのように、他人から「なぐり書き」だと酷評されるとしても、自分の描きたいものを描き続けるなら、再び絵を描く情熱も湧いてくるでしょう。そのようにして描き続けたたくさんの作品の中から、真珠のような傑作が生まれるのです。

絵の質を考えると描くことが怖くなります。何の作品も生まれません。他方、駄作と言われようとたくさん絵を描くことを楽しんでいれば、量が質を生み出します。

スランプに陥ったときには、この事実を思い出して、原点に立ち返ることが助けになるかもしれません。

わたしの場合は、正直なところ、あまり質も量もこなせていないなと感じます。絵を志す者は毎日キャンバスに向かうよう言われますが、わたしは一ヶ月に6枚くらいが最近の平均です。

それでも、ある程度の量の作品を描いていくうちに、その中でも特にお気に入りといえる作品がいくつか存在するようになる、というのは実感しています。とにかく思いついたら描くようにしていて、たとえ粗があるとしても、作品として完成させるようにしています。最初に挙げた作品は、のびのびと楽しんで描けた絵です。

中には、作品数が少なくて、その都度すばらしい絵を描かれる方もいますが、わたしの場合は、幾つも描いているうちに、良いものがときどき描ける、という方法のほうが合っているようです。

悩みにからめとられてしまったときや、描くのが少し怖くなってしまったときには、過去の画家たちのことを思い出したいものです。彼らは人からの評価や絵の上手さではなく、描きたいという気持ちを優先させ、愛のある駄作を大量に描き続けたのです。

投稿日2015.04.20