わたしが絵を描き始めたのは、不登校になってからでした。
絵を描くことは、社会から脱落し、道を見失ったわたしにとって、多くの新しい可能性を見つけるきっかけになりました。
タイトルを読んで期待してくださった方に申し訳ないのですが、これはサクセス・ストーリーではありません。わたしは、絵を仕事にしているわけではなく、絵を描くことで、社会的に成功できた有名人ではありません。まったく無名で、趣味で絵を描いているだけにすぎません。
わたしの場合「絵を描くことで人生が変わった」というのは、もっと小さなレベル、もっと日常的な物事においてです。
これから語るのは、不登校になって、ごく普通の日常、ごくありふれた友だち、ごく当たり前の居場所などを失ってしまった人が、ちょっとした趣味として絵を描きつづけてきたことで、どんなささやかな変化が人生に起こったのか、という物語です。
有名なイラストレーターになったり、売れっ子の作家になったりすることを夢見て、絵を描いている人は大勢います。でも、そんな大きな成功が収められなくとも、絵を描くことで人生が変わることもあるのだ、ということをお話しできれば幸いです。
もくじ
とつぜん訪れた不登校の日
誰の人生にも雨は降る、暗く悲しい日がある。―詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー
わたしは、学校が嫌になったり、いじめられたりして、不登校になった人ではありません。わたしが不登校になったのは、ある日突然、難治性の神経疾患になってしまったからです。
それまでもなんとなく不調は感じていました。いつもいっぱいいっぱいで活動している感じでした。疲れがたまりすぎて、風邪を引いたわけでもないのに、1ヶ月に1日か2日、学校を自発的に休んで休養しなければならないときもありました。
そ れでも、学校生活は楽しかったですし、友だちも大勢いました。学期末、クラスのだれかがアンケートを企画しました。「いつも楽しい人」「オーラを放ってい る人」「大物な人」などの項目ごとに、当てはまるクラスメイトの名前を書いて投票するというものでした。わたしはいろいろな項目で名前を書かれましたが、 得票数の合計はクラスで一番でした。とにかく何だかよくわからないけれど、クラスで一番目立っていたようです。
勉強も趣味も全力投球でした。勉強は学年トップを争っていましたし、趣味では漢検準1級を取ったり、推理小説を書いたりしていました。結局そのとき競い合っていたライバルは、現役で京大理学部に行きました。今はアフリカやハワイの天文台を転々としているそうです。
修 学旅行も楽しみました。旅行先は北海道でしたが、水族館で大はしゃぎしすぎて怒られたり、残り時間が少ないときに札幌の地下街を走り回っておみやげを確保 したりしました。アイヌの博物館で民族楽器ムックリを買って、ホテルの部屋でひたすら練習しましたっけ。でもどこかおかしくて、夜、みんなが暴れまわって いるとき、ホテルの部屋のソファに腰掛けたら、いつの間にか寝落ちしていました。なんだか、気持ちに体がついていかない感じでした。
そうこ うしているうちに、ある11月の日曜日、朝起きたら、体が動かなくなっていました。重力が何倍にもなった星で目覚めたような感じでした。体中痛くて、頭が ぼんやりとして、くらくらして、歩けませんでした。頭が働かなくて、教科書を見ても、文字が模様のように見えるだけで、何が書いてあるのか読めませんでし た。
このサイトには闘病の話など書きたくないので、詳しいことはこれ以上触れません。ただひとつ言えるのは、この日をきっかけに、わたしは 普通の生活を失い、ベッドに縛りつけられ、あれだけ楽しんでいた学校生活も勉強も友だちも、ぜんぶ奪われたということです。わたしの病気は精神的なもので はなかったのですが、あまりのショックでうつ状態になり、しばらく心療内科にも行きました。
絵を描くことでわたしが得た5つのもの
わたしは子どものときから、絵を描くのが好きでした。5歳くらいのころ、電車の絵を描いて、鉄道雑誌に載せてもらったことがありました。
で も、学校に行き始めてからは、詩を書いたり、推理小説を書いたり、読書したり、勉強したり、テレビでスポーツ観戦したり、もちろんゲームもしたり、マンガ を読みまくったり、アニメにはまったり、色んなことに熱中したので、ほとんど絵を描かなくなりました。描くとしても、ノートの挿絵程度で、自分は絵を描く のは苦手だと思うようになっていました。
ところが、病気になったとき、思考力が破綻して、本を読んだり、勉強したり、ということができなくなりました。それで、そんな自分にもできることを探した結果、自然な流れでもう一度絵を描き始めました。
以前の記事で、絵を描くことは、気持ちを言葉で表現するのが難しいときに、感情を写しとるツールとして使える、という点を紹介しました。具体的には、たとえば言葉を話せない自閉症の子どもや、脳機能が混乱している不登校の子どもなどが、絵を描くことで心を開放できる、というエピソードがありました。
わ たしの場合も、ちょうどその不登校の女の子と同じようなもので、いろいろ渦巻く感情はあったものの、言葉に変換できませんでした。ただ、心の奥底に、子ど ものころの「絵が大好き」という感情が埋没していたので、それを掘り起こして、もう一度きれいに洗ってみることにしました。
そんなこんなで、以前から描いてみたかった絵をはじめて形にしたのが、城の前でという絵でした。昔から、ファンタジーの空想をよくしていたのですが、それを一枚の絵に描いたのは初めてでした。それからなんだか楽しくなって、年に数枚は絵を描くようになりました。そのころの絵の一部は、古びたスケッチブックに収録してあります。
けれども、当時は、絵を描くのはなかなか大変な作業で、アナログで描いて、スキャンして、ちまちま修正して、切り貼りして…といった労力が伴いました。絵の描き方やフォトレタッチソフトの使い方をまったく知らなかったので、試行錯誤しながら無駄に時間がかかっていました。
よ うやくまともに絵を描けるようになったのは、ここ数年、デジタルに慣れてからです。ペンタブを使ったり、レイヤーに慣れたりして、だいぶ手間が省け、描け る枚数も劇的に増えました。その結果、絵を描くことは、わたしにとって大きな意味を持つようになり、わたしの人生を変えました。
どんな変化が見られたのか、5つの点を挙げたいと思います。
1.アイデンティティ
不幸のうちに初めて人は、自分が何者であるかを本当に知る。―王妃マリー・アントワネット
■不登校になってどうなったか
わたしが不登校になったときに、まず失ったものは、自分のアイデンティティ、つまり存在意義でした。わたしは、自分が成績優秀な優等生だ、ということに自信を持っていました。裏を返せば、それが自分の価値のすべてだと思っていました。
学生のころ、わたしはとても見方が狭い、偉ぶった人間でした。勉強のできない人は怠けだと思っていましたし、不登校になるような人は落伍者だと思って見下していました。
ところが学校に行けなくなって、自分がその状態になり、勉強もできなくなったとき、わたしは自分が落ちこぼれだと思い、自信を失いました。期待してくれていた親や先生に、合わせる顔がありませんでした。
■絵を描くようになってどう変わったか
しだいにわたしの体調は改善し、以前のように読書したり、文章を書いたりできるようになりました。一応、文章を書くことで収入も得るようになりました。
でも、文章を書くことは、わたしの人生を変えませんでした。もの書きはあくまで必要に駆られてやっているだけです。サラリーマンが、会社に務めているからといって、その会社や仕事が自分の大切なアイデンティティだと感じたりはしないのと同じです。
わたしの場合、病名がついてからは、その病名がアイデンティティになりました。どうしてそんなことになったのかというと、その病名は、わたしの新しい人生のすべてを表しているように思えたからです。何をするにも、その症状に対処しながら生活しなければなりませんし、新しい人間関係もそのつながりから生まれたものでした。
で も、病気がアイデンティティだなんて、なんだか悲しくないですか? それなら、病気が治ったらアイデンティティを失うことになります。早く治りたいのに、 治ったら存在意義を失ってしまうなんて、素直に喜べません。実際に患者会を運営する難病患者の中には、病気がアイデンティティや生きがいになってしまい、 一種の「疾病利得」(病気から利益を得ること)が生じて、病気が治りにくくなっている人もいるそうです。病気が生きる目的になっているからです。
わたしはそんなのは絶対にいやでした。だから、病気とは関係のないところに、自分らしさや生きがいを探しました。わたしはいろいろ趣味がありましたが、アイデンティティというのは、「自分が自分をどう見るか」だけでなく「他人が自分をどう見るか」とも関係しています。
変 な例ですが、ゲームが大好きな人がいるとして、毎日毎日家に引きこもってゲームをしているだけでは、ゲーマーとしてのアイデンティティを持ったりしないと 思います。ゲームのイベントに参加したり、友だちを家に呼んで一緒にゲームを楽しんだり、ブログでゲームの情報を発信したりして、「自他ともに広く認めら れる」ゲーマーになったとき、その人はゲーマーとしての生き方が自分のアイデンティティだと感じるようになるかもしれません。
同様に、何かの趣味や活動をアイデンティティのレベルにまで成長させるには、「自他ともに広く認められる」ことがある程度は必要です。リア友やネトフレから「◯◯の人」と認知されるようになってはじめて、自分でもそれが生きがいだと感じられるようになるのです。
わ たしの場合は、絵は最初はアイデンティティとは言えない趣味の一つでした。しかしたくさん描くようになって、このウェブサイトに載せたり、友だちに見せた りすることが多くなりました。そのうち、初めて知り合った人にも、名刺がわりに絵のメッセージカードをプレゼントするようになりました。
ちょっ と前まで、「なんとか病」のYuKiさんとして知られていたわたしは、今では、その「なんとか病」の仲間たちからさえ、メルヘン絵描きのYuKiさんとし て知られています。最近知り合った人たちは、わたしの病名なんてまったく知らないほどです。わたしはついに新しいアイデンティティを手に入れたのです。
2.友だち
人間にとって一番ひどい病気は、誰からも必要とされていないと感じることです。―修道女マザー・テレサ
■不登校になってどうなったか
わ たしは不登校になったとき、学校の友だちすべてを失いました。最初は、仲の良かった友人と連絡を取っていましたが、みんながどんどん進学して社会に出てい く中、わたしは一人取り残されて、とても惨めになりました。やがて話題も合わなくなって、相手にとっても負担なのではないかと感じ、連絡も取らなくなりま した。
学校のアンケートでは、あれほど人気だったのに、不登校になったとき、わたしのことを気遣ってくれる人はいませんでした。だれかが向 こうからメールをくれるなんてことはめったになく、みんなにとって、自分はその程度の存在だったのだなあ…と痛感しました。唯一、小学校の同級生の一人が 今だに電話をくれますが、わたしが悩み相談に乗る側です。
まあ考えてみれば、学校の友だちなんて、その程度の関係でしかなかったのです。ニューロ・ロジカル・レベルという考え方によると人との結びつきは、「環境」→「行動」→「能力」→「価値観」の順で強くなります。学校の友だち、というのは、一番低いレベルの「環境」が同じだから友だちになったにすぎず、一番結びつきも弱いのです。
■絵を描くようになってどう変わったか
幸 い、不登校になったあと、わたしはただの引きこもりではなくて、病名もついていたので、病名を頼りに、いろいろな友だちができました。さまざまな伝手で同 じ病気の人と知り合いました。当時は日本では診断済みが2000人くらいと言われるほど希少な病気だったので、同病の仲間と連絡を取りたい人も多かったの です。
結果として、30歳以上年上の親くらいの年齢の人とか、ほぼ同い年の人とか、沖縄に住んでいる人とか、老若男女問わず、いろんな人と 知り合いました。当人だけでなく、その家族と仲良くなったこともありました。同じ病気の人だけでなく、似たような境遇にある人や、障害を持つ子どもの親な どとも仲良くなりました。
病気の人とのつながりというのは「環境」ではなく「価値観」のつながりであることも少なくありません。そのため、年に会えるのが数回だったり、一度しか会ったことがなかったりするのに、今だに手紙やメールで仲良く連絡を取り合っている人が大勢います。
このように、不登校になったわたしに新しい友だちが大勢できたのは、絵ではなく病名のおかげだったのですが、絵を描くようになって、絆はさらに深まったと思います。
難 病に苦しむ人は、なんといっても毎日が大変で、辛いできごとも多いものです。そのため、明るい夢や希望のこもった絵を送ると、本当に喜んでくれます。励み になるメッセージを手紙で送るのも、お互いに励ましあう方法の一つですが、中には当初のわたしのように、文章を読むのも苦痛な人もいます。でも、絵なら、 頭を使う必要はありません。
絵を見ることには、努力も時間も必要ありません。ひと目みるだけで、鮮やかな色や楽しげな雰囲気が飛び込んできて、心が癒やされます。病気の友だちに、最も負担をかけず、最も簡単に喜んでもらえるので、絵を描くようになって本当によかったと心から思います。
それに加えて、絵を通して、今まで接点のなかった人たちと仲良くなる機会も増えました。交友の輪が広がったのです。
3.喜び
人生がもっとも面白くなるのは、他人のために生きている時です。―社会福祉活動家ヘレン・ケラー
■不登校になってどうなったか
人間は、基本的に、自分の長所を活かしたり、だれかの役に立てたりしたときに喜びを感じます。
でも不登校の人にはそんな機会はほとんどありません。自分の人生さえまともに扱えないのに、他の人のために何ができるというのでしょうか。
だれかに喜んでもらえるなんてことはなくなり、家にいても肩身が狭く、友だちとも疎遠になり、親戚の人からは、いつまでニートやってるのと怒られます。好きで不登校をしているわけではないのに、そんな扱いを受けるわけです。
病 気の人は、基本的にいって、だれかのために何かをしてあげられることより、だれかに何かをしてもらうことのほうが、はるかに多くなります。寝たきりになる と、簡単な身の回りのことでさえ、世話されないと生きていけません。20歳にもなって、親に三食作ってもらったり、経済的に養ってもらったりしなければな りません。どこかに行くにも、友人の車に乗せてもらったり、介助してもらったりすることが必要です。
もらってばっかりで何もお返しができません。いつも何かをしてもらっているのに、「ありがとう」という感謝の言葉を言う以外に何もお返しができない申し訳なさを想像できますか?
■絵を描くようになってどう変わったか
絵を描くようになって、わたしはお返しができるようになりました。いつも何かをもらってばかりだったのが、みんなにプレゼントできるようになったのです。
友だちが、ご飯の差し入れをくれたり、お菓子を買ってきてくれたり、どこかに連れて行ってくれたりするのは今でも同じです。でも、わたしは、感謝の言葉だけでなく、心のこもった絵とメッセージをお礼にあげることができるようになりました。
もちろん何か親切にしてもらったとき、チップを払うように、すぐにその場で絵を渡したりはしません。そんな関係は窮屈です。そうではなくて、別の機会に手紙を描いたりして、絵をプレゼントします。するととても喜んでくれて、「家に飾ってるよ!」とか「友だちにあげたらめっちゃ喜ばれたよ!」とか返事がきます。
一方通行の親切ではなく、お互いに与え、与えられる存在になりました。はじめて、友だちと同じ立場に立てた気がしました。
わたしは、自分の趣味が、「絵を描くこと」で本当によかったと思います。楽器を演奏する人や、作曲する人、手芸を楽しむ人、料理を作る人などにも憧れたことがあります。今でも、そうした趣味も身につけたいな、と思います。実際、わたしは趣味で少し楽器も弾きます。
で も、「絵を描くこと」はそれらと比べても、わたしにとってベストなのです。なぜなら楽器の演奏や料理とは違って、友だちが身近に住んでいなくても、絵を送 ることで相手を楽しませられます。作曲して聞いてもらう場合のように、相手に時間を取らせることもありません。編み物のように嵩張らないので、ちょっとし た手紙に同封でき、相手の邪魔にもなりません。
最初は、1年かかって描いた何十作もの絵が、人に見せると、ほんの一分くらいで見終わってし まうということが、費用対効果のアンバランスだと不満を感じていました。しかし、今ではむしろそれは大きなメリットだと思っています。読むのに時間がかか る文章、聞くのに手間がかかる音楽と違い、一瞬で魅力が伝わり、相手にとって、ハードルが低いのです。
(※もちろん、音楽にも小説にも、その他のどの趣味にもそれぞれのメリットがあります。わたしが楽器演奏の趣味を持っていて良かったと思った点についてはわたしがウクレレを練習して人生がちょっと楽しくなった話―音楽がテーマの絵を描く理由をご覧ください)
4.豊かさ
想像力は知識よりも重要だ。知識には限界があるが、想像力は世界を包み込む。―物理学者アルベルト・アインシュタイン
■不登校になってどうなったか
不 登校になるならない以前に、わたしはもともとかなり多趣味な人間でした。だから、はたから見れば、かなり豊かな内面生活を送っていると思われていたかもし れません。ひたすら創作をすることが生きがいで、学生時代に小説は20作くらい書きましたし、自分で勝手に詩集を作っていましたし、手紙は、記録に残って いるだけで400通は書いていますし、何かの考察とかまとめなどの著作物は相当な数があります。
けれども、それらの作品は、わたしにとって大切なものではあれど、内面を豊かにするものであったかというと、そんな風に思ったことはありませんでした。むしろ、わたしにとって、文章を読んだり書いたりすることはコンプレックスになっていました。
子 どものころから、いろんな知識を披露するたびに「すごいねー」「よく調べたね―」「賢いね―」などと言われてきましたが、わたしはそんなお世辞をかけられ るのが大嫌いでした。暗に「頭でっかち」とか「ガリ勉」とか「まじめ人間」などと思われている気がしていたのかもしれません。(ひねくれてますね笑)
わ たしは自分が知識偏重型のコンピューターみたいな人間だとは思ったことはありません。杓子定規で融通が利かない頭の固い人間だとも思いません。でも、なん だかわたしの周りの人たちは、わたしのことを、そんな真面目で完璧主義の堅物であるかのように誤解している気がしていたのです。まあ、わたしの書く理屈っ ぽい文章や考察を読んでいれば無理もないことです。
■絵を描くようになってどう変わったか
わたしは、自分がもっと幅広い人間だと思っています。それを証明したいとも思います。
世の中にはステレオタイプというものがあります。科学者は知性的で、理屈っぽくて博学。芸術家は直感的で、常識にとらわれずアイデア豊か。そんなステレオタイプです。
で もよく考えてみてください。レオナルド・ダ・ヴィンチは、科学者でもあり芸術家でもありました。ウィンストン・チャーチルは44冊の本を書いてノーベル文 学賞をもらっていますが、同時に500点以上の絵も描いています。アルベルト・アインシュタインは、物理学だけでなくヴァイオリンもたしなみました。創造的な人は、科学 だって芸術だって、文章だって絵だって、なんだってできるのです。
というわけで、わたしが絵を描くようになると、友だちはみんなびっくりしていました。「こんな可愛い絵を描くなんて意外!」と何度言われたことか。わたしとしてはしたり顔です。相手が持っていた、わたしに関する固定イメージを覆すことに成功したのです。
でも正直いって、自分でも驚いています。わたしがメルヘン・ファンタジーな絵を描くなんて、昔は想像もできませんでした。わたしはもともとロボットアニメの絵を描くのが好きだったのに、まさかこんなほのぼのとしたイメージが次々と生まれてくるなんて。
人間というのは本当に複雑で、磨けばさまざまな色合いが映るダイヤモンドみたいに、いろいろな可能性を秘めているのだなあ…と自分でもあっけに取られているところがあります。
わ たしは自分の絵を見返すのが本当に好きです。このサイトを作ったのも、だれかに見てもらいたいからではなく、いつでも自分の絵を鑑賞できるギャラリーを作 りたいと思ったからでした。ネット上にギャラリーを作っておけば、災害などで自宅のPCが壊れても、いつでもどこからでも作品集にアクセスできますから ね。
自分で自分の絵を見るとき、なんだかとても心が豊かにされるような気がします。絵を描くことによって、こんな楽しい世界を形にすることができて本当によかったなあ…としみじみと感じるのです。
5.自分の居場所
誰もがどんどん行動を起こしていくと思い描くのは、なんてすてきなのかしら。わたしたちは今すぐ始めることができる。
…そして、あなたはいつどんな時も何かを与えることかできる。たとえ優しさだけだとしても…! ―ユダヤ人の少女アンネ・フランク
■不登校になってどうなったか
不登校になって、学校に行けなくなったことは、わたしにとって、自分の居場所がなくなることを意味していました。学校が生活の中心だったからです。それから何年か引きこもっていましたが、かといって家に居場所があるかといえば、そう簡単な話ではありません。
と いうのは、あくまで、社会の中の自分には役割がある、と思えてはじめて「自分には居場所がある」と感じられるからです。引きこもっていて社会との接点がな いと、たとえ家族は大事にしてくれるとしても、自分には何の役割もない、という無力感を抱きがちです。実際、もし家族が事故や病気で亡くなったら、もう独 りぼっちです。
社会とのつながりがないと居場所がなくなるというのは、何も不登校の子どもだけの話ではありません。定年退職した一家の働き 手の中には、居場所も生きがいもなくなって、すっかり無気力になり、粗大ゴミ扱いされてしまう人もいます。家族がいなくなると最後に行き着くのは孤独死で す。
■絵を描くようになってどう変わったか
すでに述べたように、わたしは、それなりに社会や周りの人とのつながりを保ってきました。地域のコミュニティーに参加したり、病気を通していろいろな人と知り合ったり。でも、だからといって、自分に役割があり、居場所がある、と感じていたわけではありません。
やっぱり基本的にいって、役立たずなのです。体力のいる仕事にはほとんど協力できません。何か雑用を頼まれても、いつ体調が暗転するかわからないので、長期的な責任を伴う仕事などは果たせません。
こうした状況は、絵を描くようになったからといって、劇的に変わったわけではありませんでした。絵を描いても、直接だれかの役に立つわけではありません。しかし…なんでしょう、だれかから必要とされることが、以前より多くなったという実感があるのです。
絵を描くことが、そのまま役に立ったというよりは、いろいろなことをあきらめずに続けてきて、自分の幅が広がったことによるのだと思います。
もともとわたしは文章を書いたり知識をまとめたりという「木」を育てていて、それにはある程度の実がなるようになりました。そのあと、絵を描くことという別の「木」を育てて、そちらにも実がなるようになりました。そのほかにも小さな木は幾つか育ててきました。
すると、ある木がたまたま不作になっても、別の木は実を結んだり、ある木の果実があまり相手の好みに合わなくても、別の木の果実であれば、相手に喜んでもらえるということが生じるようになりました。いろいろな方法をうまく使い分けられるようになったので、何か一つがうまくいかない状況でも、別の方法でだれかの役に立てるようになってきたのです。
結果として、地域社会の中で、さまざまな人とのつながりの中で、だれかの役に立つ機会が増え、なんとなく居場所が得られるようになりました。
まだ道のりは始まったばかり
だいじなのは、もうすべて分かったと思った後から何を学ぶかだ―スポーツ指導者ジョン・ウッデン
わたしにとって、絵を描くことで人生が変わった、というのは、もともとそうしようと意図していたことではありませんでした。いつの間にか生活にいろいろと良い影響が出てきて、自分でも驚いているというのが正直なところです。
いろいろと幸運な面もあったのだと思います。
まず、もともと地域のコミュニティーや病気仲間を通して人とのつながりができていたという点があります。単に絵を描いているだけだったら、こうも色んな人と仲良くなれなかったでしょう。
ま た絵のテーマもドンピシャでした。わたしが昔のままアニメの絵を描いていたら、80歳のおばあちゃんや、50代の同病のおじさんや、知り合いの家族のお孫 さんの幼稚園児に絵を喜んでもらえるなんてことはなかったでしょう。でも、特に何か意識したわけでもないのに、わたしの作風は「どうぶつ」と「子ども」がテーマになりました。万人に好かれやすい題材です。
もともとの頭の構造も、絵を描くことに向いていたのかもしれません。そういえば亡くなった任天堂の岩田社長がこんなことを言っていました。
“労力の割に周りが認めてくれること”が,きっとあなたに向いてること。それが“自分の強み”を見つける分かりやすい方法だよ!― 任天堂社長 岩田聡
わたしは自分に絵の才能があるなんて、これっぽっちも思ったことはないのですが、事実として、たいして努力もせずに描いた絵で、けっこうみんなに喜んでもらえています。
今後、絵を描くことが、わたしの人生にどんな影響を及ぼすのか、今の時点では、まったく予想もつきません。不登校になって絵を描き始めたころに、今こんな状態になっていることを予想できなかったのと同様です。
良 いことばかりでなく、悪いこともいろいろあったので、これからもきっといろいろあるでしょう。ひょっとすると、絵が嫌いになったり、スランプで描けなく なったり、何かの病気や障害でペンを握れなくなったりするかもしれません。実際、知り合いのプロの画家さんは、脳梗塞で今までのような絵が描けなくなりま した。
でも、あまり期待も心配もせず、これまでどおりに、描けるときに絵を描いていきたいと思います。あまり欲張っても仕方ありませんし、思いつめてもいいことありません。
こ れから描きたい絵は、じつはかなり色々とあります。でも時間や体力の余裕がなくて、なかなか実現できないのが残念です。わたしは一日中絵を描いていられる わけでもなく、ほかにやらないといけないことはたくさんあります。絵を描くこととは、これからもじっくりと付き合う必要があり、なかなか長い道のりになり そうです。
未来のことはわかりません。ただ現時点で、わたしがはっきりと言えるのはひとつだけです。すなわち、これまで描くことのできた宝物のような絵のおかげで、わたしの人生が確かに変わったということなのです。